
明治維新を駆け抜けた坂本龍馬 高杉晋作の足跡
山口明治維新を駆け抜けた坂本龍馬 高杉晋作の足跡
まいどまいど! 山口県下関市は、新鮮な魚介類を中心に楽しむことができる唐戸市場をはじめ、韓国・朝鮮料理を楽しむことができるグリーンモール商店街(コリア・タウン)などがあり、中でもクジラやフグなどの珍しい料理を味わうことができる。 そんな地元でも人気のお店がありまんねやけども、その一方で、1868年の明治維新で歴史が動いた街の一つとして知られてはりまんな。 下関駅から少し歩いてみると、坂本龍馬や高杉晋作ゆかりの場所が登場。 そんなゆかりの地を一つ一つ、めぐってみると、新たな明治維新の面影が見えてきました。 そんな面影を皆様の目で確かめて見てください。
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ホテルウィングインターナショナル下関のなかにあるレストラン〜美食酒家 ゆめぜん〜。
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ふく雑炊
夜は居酒屋として、朝は朝食を味わうことのできる場所として知られ、ここで、おすすめしたいのが、一日限定25食という ふく雑炊 地元ではフグのことをフクと呼び、長年、親しまれてきた。 今回、おすすめするふく料理は、午前中のみとなっているが、地元名産のふくを味わうことができる。
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大手食品会社のマルハニチロ(東京都江東区)の前身で水産加工食品の製造販売マルハ(旧社名、大洋漁業)の本社跡地。 明治時代、中部幾次郎がの播磨明石林崎漁港(兵庫県明石市)で家業の鮮魚仲買運搬業を受継、拠点を当地に移転。 戦時中に漁業用船舶を徴用され大打撃を受けた。 捕鯨、母船式北洋サケ・マス漁業を再開、西アフリカ海域でのトロール漁業を開始。 電子レンジ加熱食品事業、マグロの養殖、DHA入りソーセージなどを展開。 プロ野球球団「大洋ホエールズ(横浜大洋ホエールズ、横浜ベイスターズ)」のオーナー企業であった。
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1812年、長門国赤間関竹崎で米や酒、木材等を扱う萬問屋(荷受問屋)小倉屋を営む白石卯兵衛・艶子の長男。 鈴木重胤から国学を学び、重胤の門下生を通じて西郷隆盛との親交を深め、薩摩藩の御用達となった。 月照上人、平野国臣、真木保臣らと親交を深め、尊皇攘夷の志に影響を受け、長州藩の高杉晋作、久坂玄瑞らを資金面で援助。 土佐藩を脱藩した坂本龍馬らは一時、白石邸に身を寄せていた。 高杉晋作の奇兵隊に次弟の白石廉作とともに入隊。 正一郎は奇兵隊の会計方を務め、士分に取り立てられた。 赤間神宮の2代宮司となった。 赤間神宮の背後の紅石山に奥都城が建てられ、隣には真木保臣の次男・真木菊四郎の墓が並ぶ。
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1849年、毛利藩は吉田松陰らに北浦海岸防備の巡検を命じた。 船で萩を発した一行は北前船の寄港地である須佐浦の巡検から取り掛かった。 赤間関の巡検から始め、松陰らは伊崎の関屋松兵衛宅に滞在したとか。 ここでは大きな杉風呂や豪華な夕げの膳に、赤間関商人の意気込みと生活感に驚いたという。
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長州藩は幕府の征討軍に屈した(第一次長州征伐)後、親幕府派の俗論党が政権を握った。 1864年、高杉晋作は乾坤一擲の武力による奇襲攻撃によって政権を奪い返し、再び倒幕路線に。 高杉は下関を開港させ、横浜港ような港を目指して、対幕府戦に向けて経済力を高めようとした。 藩内には攘夷に固執する勢力が存在し、この計画が洩れた途端、高杉を討つべく暗殺団が結成され、高杉やその一派である伊藤俊輔、井上聞多らに狙いを定めた。 高杉は下関で潜伏生活を強いられ、愛人おうのを連れて長州を脱出。 琴平の日柳燕石を頼り、四国で過ごした。 ひょうたん井戸は下関潜伏中に丸1日、刺客から身を隠すために潜んでいた井戸である。
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源平合戦の頃、都を追われた平家一門が西へ逃げる際、安芸の厳島神社から厳島大明神を分霊。 壇ノ浦の戦いでは平家が惨敗、逃げ延びた平家の落人が分霊した御神体を隠していたが、御神体を地元の人が見つけ、 ここに社を構えたのが伊崎厳島神社の始まり。 1849年、吉田松陰は付近の関屋松兵衛宅で滞在中、参拝したとか。 末社にあたる鈴ケ森稲荷神社の脇には裏山へ続く道があり、吉田松陰は参拝後、日和山を越えて海辺に出て、「身投岩」と呼ばれる場所に到着した。 「身投岩」とは、平家の残党狩りで追われた人々が、身を投げた岩であるとか。
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祭神は、宗像三神(厳島三神)として、市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命。 治承・寿永の乱(源平合戦)の頃、平家の守護神として安芸国嚴島神社の御分霊を安徳天皇の御座船に祀っていたが、壇ノ浦の戦い後、磯辺に放棄された。 1185年、里人に神託があり、里人は磯辺にあった御鏡太刀様の物を発見、社殿を建立、更に安芸国厳島神社より御分霊を改めて勧請。 1866年、高杉晋作は四境戦争に挑むに当たり、戦勝祈願の為に参拝。
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太鼓
小倉口の戦いで、長州軍は奇兵隊・報国隊の2隊を先鋒とし戦い、幕軍総帥小笠原壱岐守が小倉城を脱出、小倉藩は自ら城に火を放って敗走する中、攻め入った長州軍は余燼の中から、太鼓を持ち帰り、高杉晋作が戦勝祈願を行った嚴島神社に大御神へのお礼にと奉納。
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1864年、藩政改革を唱える高杉晋作は、長府功山寺で挙兵。 萩本藩の出先である萩藩新地会所を襲撃した。
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小倉戦争が勃発し、高杉晋作は長州軍を指揮し幕府軍との激戦を繰り広げた。 この戦いで持病の結核が悪化し、桜山神社付近で小さな家を建て、野村望東尼、愛人おうのの看病による療養生活を送っていたが27歳という若さで終焉を迎えた。 高杉東行とは、高杉晋作のこと。
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小倉戦争が勃発し、高杉晋作は長州軍を指揮し幕府軍との激戦を繰り広げた。 この戦いで持病の結核が悪化し、桜山神社付近で小さな家を建て、野村望東尼、愛人おうのの看病による療養生活を送った。
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1785年、周防国富海(山口県防府市富海)生まれ。 長門国赤間関(山口県下関市)の紺屋(染工)を営む小田家の養子となった。 京都四条派の松村呉春に入門し、同門の松村景文や岡本豊彦らと出会う。 頼山陽に感化されて南画に転向し、九州に遊学した。 中国元明時代の古書画の模写をするなど研究を重ねて独自の画風を確立した。 1824年、萩藩の御用絵師となり、江戸に滞在。 京都に戻って活動を再開し、画室を設置し、富岡鉄斎に絵を教えていたとか。 山水画、花鳥画、人物画を得意とし、高野山や京都御所の障壁画などの大事業を手掛けている。
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