咲くやこの花・此花を探索
大阪咲くやこの花・此花を探索
まいどまいど! 日本を代表するテーマパークの一つ「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)」はいまや、関西一円のみならず全国各地からぎょうさんの観光客が訪れる人気スポットとして有名でんな。 せやけど、そのおひざ元でおます大阪市此花区には目立たへんところで、隠れた名所っちゅうのもぎょうさんありまんねん。 皆さんは安治川隧道っちゅうのをご存じでっしゃろか。 別名、安治川トンネルとも呼ばれる安治川隧道は、大阪市内を流れる「安治川」の川底にあり、西区と此花区とを結ぶ歩行者専用のトンネルのこと。 観光客の多くは西日本旅客鉄道(JR西日本)大阪環状線・ゆめ咲線または阪神電気鉄道阪神なんば線に乗って、ユニバーサルシティやユニバーサル・スタジオ・ジャパンに向かいますやろな。 せやけど、その途中にある西九条駅や安治川口駅、千鳥橋駅、伝法駅やその周辺を巡っていきまひょ。 この界隈には、近代の大阪に発展していくその礎を築いた貴重な場所がぎょうさんおます。 大坂船奉行所や鉄工所、日本鋳鋼所、汽車製造所などをここで、一挙、大公開! ぜひ、お出かけプランの参考にしてみてください。
別名、安治川トンネルとも呼ばれる安治川隧道は、大阪市内中心部を流れる「安治川」の川底にあり、大阪市西区と此花区とを結ぶ歩行者専用のトンネルのこと。 これは、日本で初めてとなる沈埋工法トンネルとして知られ、今日も市民の足として多くの人が利用する。 トンネルが完成する以前、渡船の継続や架橋の計画もあったが、安治川は多くの船が行き来するため、航行の妨げになること、また、架橋も船の高さに限界があった。 そのため、1935年に、源兵衛渡跡に川底トンネルを建設。 1944年、竣工した。
安治川隧道入り口付近
川面下まで約14mあり、両岸のエレベーターや階段で降りる方式。 歩行者・自転車用の通路は幅約2m、長さ約80m。
そばを中心に味わうことができる飲食店。 店内はテーブル席のみで、テイクアウトも可能。 メニューはかけそばやもりそば、とろろそばなど。 大阪・心斎橋のそば創作料理居酒屋「そば居酒屋るちん」の姉妹店「るちん工房店」が2023年に移転、開業。 スタミナホームランそば。
うどん
海老の天ぷらやちくわの金プラ、牛肉、きつねなど。
1620年、江戸幕府は四貫島村に船奉行所を設置した。 西国諸国から大坂に向かう船は、伝法川から逆川を経て大坂市中へ向かったため、幕府は諸船の通行を吟味し、西国諸侯の動向を当地で監視したとか。 1684年、河村瑞賢が安治川を開削した。 1685年、多くの舟は安治川を出入りするようになり、出入りする舟の数が減少したため、四貫島と木津川口にあった船番所を廃止、新たに九条村本田の北端に、「川口船手奉行所」を置いた。 2011、六軒家川に架かる朝日橋のたもとに、碑を建立した。
伝法川とは、新淀川開削前の旧淀川筋で、正連寺川から分岐していたと言う。 1956年、埋め立てられた。 正連寺川からの分岐点である鴉宮神社の前に碑が建立されている。
1896年、元鉄道庁長官の井上勝氏によって設立された汽車製造合資会社が当地に汽車製造工場を開設した。 井上勝氏は、1893年に日本で初めてとなる民間機関車メーカーとして設立し、長州藩の井上馨や、黒田長成、前田利嗣、毛利五郎らの旧諸侯、岩崎久弥、住友吉左衛門、渋沢栄一、安田善次郎らの実業界の有力者らに出資を仰いだ。
当時、客車等を製造するメーカーとしては平岡工場、三田製作所、東京石川島造船所、天野工場があり、平岡工場の平岡凞氏を副社長として迎え、自らは社長の座に就いた。 技師長は、日本鉄道大宮工場の長谷川正五氏。 1903年、大阪で開催された第5回内国勧業博覧会にも展示されたとか。 1972年、鉄道車両メーカーとして営業していたが、川崎重工業と統合した。
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祭神は、天照大神である。 1215年、村と港の繁栄を祈念して、伝法村の中心に傳母頭神社として鎮座したことに始まる。 1592年、豊臣秀吉は当社を訪れ、旅の無事を祈願した。 すると、社殿奥の森より三足の鴉が現れた。 その後、秀吉は平穏に帰国を果たし、当社に「鴉宮」の名を贈った。 それに合わせ、鴉が巣を成している森地に遷宮したと伝えられている。 明治時代、復興、酉島町の住吉神社、秀野町の住吉神社を合祀して現在に至る。
源泉名は、慶泉成美の湯。 泉質は、単純温泉(低張性・弱アルカリ性・高温泉)である。 神経痛、筋肉痛、関節痛、五十肩、くじき、慢性消火器病、冷え症、病後回復期、疲労回復、健康増進などに効果がある。
大阪市此花区にある商店街である。 全長190mあり、飲食店や書店、雑貨店などが並んでいる。 この商店街では、四季折々のイベントが開催されている。 春には、商店街の中で日本映画の特設映画館を設置して映画と商店街を盛上げている。 夏には、七夕のイベントがある。 このイベントは、この商店街の付近に住む小学生が短冊に書いた、願い事や将来の夢などを飾っている。 秋になると、テーマ「彩りの街」として、紅葉・月見などを飾り付けている。 冬になると、電飾でのクリスマスの飾り付けがされる。 さらに、12月15日から12月25日までクリスマスセールが開催される。
主に和食や洋食を中心とした飲食店が立ち並ぶ。 アットホームが自慢の居酒屋や四季折々の食材が並ぶ和風創作料理が自慢の店舗も。
五殻豊作を祈って稲荷大社と海上安全の守護神として住吉大神を祀っている。 1680年、西野新田に入植した人々により、創建された。 1907年、茨住吉神社の行宮所となった。 茨住吉神社の渡御があった。 1946年、社名を西九条神社と改称。 茨住吉神社の渡御を休止した。
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主に和食や居酒屋などの店が立ち並ぶ。 JR西日本大阪環状線の高架下に位置するため、多くの人でにぎわう。
1910年、旧本店を建設。 デザインは、クラシック・モダンな木造洋館で、アールヌーボー様式を取り入れた。 また、当時では珍しいステンドグラスを使用している。 1982年、全国主要建築物に選定。
旧鴻池本宅
当旧本店と隣接する旧本宅はほぼ同時に建設されたとされ、デザインは、町屋風である。 2階内部は、当時著名な彫刻家相原雲楽の作品であると言われている。
鴻池忠治郎
1871年、創業当初は建設業や運輸業を営んでいた。 1918年、株式会社鴻池組を設立した。 1945年、運輸部門を鴻池運輸株式会社として分社し、鴻池組を建設業専業とした。 1982年、大阪市此花区にある旧鴻池本店は日本建築学会より全国主要建築物に選定された。 2003年、鳳ホールディングス株式会社を設立し、その完全子会社となる。
主に和食や居酒屋などの店が立ち並ぶ。 JR西日本大阪環状線の高架下に位置するため、多くの人でにぎわう。
祭神は、住吉大神、天照大神、八幡大神、神日本磐余彦命である。 建立時期など詳細は不明である。
澪標(みおつくし)
澪標(みおつくし)とは、澪の串の言う意味である。 航行しうる船に、通りやすい深い水脈を知らせるため、初めて難波に建てられたと言う。 江戸時代、この周辺は、水上交通が盛んだった。 当神社の南の浜辺にも、澪標が立っていたと言う。
身を尽くし
古歌では、「身を尽くし」にかけて歌われて来たと言う。
日本初の本格的な平炉をもつ製鋼所である。 江戸時代末、各地で反射炉を用いて製鉄が行われていた。 明治時代、兵器用に輸入炉で製造していた。 以後、重工業発展政策がとられたことをうけて、八幡製鉄所が創建された。 1899年、日本鋳鋼所が創建された。 当時は、3.5トンのシーメンス式平炉およびドーソン式ガス発生炉を設置した。 翌年、八幡に先んじて初湯を出した。 工場を拡張した後、住友家が引き継ぎ、住友鋳鋼所を設立した。
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主に、飲食店や雑貨屋などが立ち並ぶ。 また、通勤客・通学客でにぎわっている。
春日出公園内に設置されている碑。 1600年頃、大阪では、新田開発が盛んとなっていく。 1689年、春日出新田は雑賀屋七兵衛によって開かれた。 八州軒はその会所の庭園であったと言う。 当時は、兵庫・京都・和歌山など八国の風景が一望できたと言う。 現在、建物の一部は横浜市に移された。 また、重要文化財に指定されている。
1881年、イギリス人実業家・E.H.ハンターにより、創業した。 大阪鉄工所は、大阪における近代重工業の発祥とも言える造船工場である。 当時は、6馬力の蒸気機関を備えた最新説工場であったと言う。 その後、桜島へ移転した。 その他、日立造船所発祥の地としても知られており、すぐそばに日立造船所に関する碑が建っている。