
横浜のデートコース・山下公園界隈をぶらぶら
神奈川横浜のデートコース・山下公園界隈をぶらぶら
まいどまいど! 横浜の人気のデートコースっちゅうたら、横浜みなとみらい21や山下公園界隈でんな。 この界隈では、大阪や神戸と似た雰囲気がおまして、陸や水上からの景色を堪能することのできる水陸両用バスも横浜のみなとみらい21や横浜赤レンガ倉庫周辺が出発点となっておます。 ほんでから、カップヌードルミュージアムも当地にあり、大阪府の池田市がインスタントラーメン発祥の地として知られてまんねやけど同様に世界で初めてインスタントラーメンのチキンラーメンを開発・製造した日清食品創業者の安藤百福氏をテーマにした博物館となってまんねん。 ほんでまた、横浜っちゅうたら港町でんねんけど、大阪には大阪港、神戸には神戸港があり、どことなく神戸に似た雰囲気が横浜にはありましたな。 ぎょうさんの観光客が集う山下公園や神戸の南京町のような雰囲気が漂う中華街など、関西の特に阪神間とよく似た雰囲気が横浜にはおまっせ。 また、夜景も美しく、関西の大阪や神戸と似た幻想的な世界に引き込まれていきまんな~。
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水陸両用バスによる水上、陸上観光が横浜でも楽しめる。 大阪府大阪市内の中心部を流れる大川では水陸両用バスが運行され、水上、陸上の両面から大阪市内の街並みを楽しむことができ、豊臣秀吉や徳川家康ゆかりの大阪城天守閣や日本の通貨を製造する造幣局、市民の寄付により植樹されたという歴史を持つ桜並木が美しい桜ノ宮公園などを望むことができるが、そんな体験が遠く離れた神奈川県横浜市でも楽しむことができる。 場所は、神奈川県横浜市を代表する「横浜みなとみらい21地区」。 「スカイダック横浜」と呼ばれ、帆船「日本丸」が展示されている「日本丸メモリアルパーク」または「横浜赤レンガ倉庫」が出発点。
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正式名称は横浜税関新港埠頭倉庫。 1911年、2号館が竣工。 1913年、1号館が竣工。 1989年、保税倉庫として利用されてきたが閉鎖された。 2002年、1号館は展示スペース、ホールなどの文化施設、2号館は商業施設として整備された。 第45回BCS賞受賞。 経済産業省による近代化産業遺産に認定。 日本で初めてとなる「ユネスコ文化遺産保全のためのアジア太平洋遺産賞」優秀賞受賞。
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安藤百福発明記念館 横浜。 2011年、インスタントラーメンの発明者で、日清食品創業者、安藤スポーツ・食文化振興財団創設者である安藤百福の生誕100周年と、世界で初めてとなるカップラーメン「カップヌードル」の発明40周年を記念して開館。 1999年、安藤百福が世界で初めてとなるインスタントラーメン「チキンラーメン」を発明した大阪府池田市には「インスタントラーメン発明記念館」(安藤百福発明記念館 大阪池田)が開設。 テーマは、生涯を食の創造開発に尽くした安藤百福の精神「クリエーティブ・シンキング=創造的思考」。 目的は、発明・発見の楽しさやベンチャーマインドの大切さを子供たちに伝えること。
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記念撮影も
カップヌードル ミュージアム前にはチキンラーメンとカップヌードルのキャラクターと会えるかも。 この日は記念撮影のために長い行列ができていた。
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インスタントラーメン
インスタントラーメンの仕掛けで子供たちも喜ぶ!?
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1997年、鉄道廃線跡を利用して開通したプロムナード。 2002年に設定された散策コース「開港の道」の起点側にあたる。 1996年、汽車道はウィンナープロムナードと呼ばれていたが改称。 1911年、旧横浜駅と新港埠頭を結ぶ臨港線(通称、税関線とも)として開通したが廃線となった。
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1923年、関東大震災が発生した。 1930年、復興事業の一貫として瓦礫などを使って海を埋め立て造成し、開園した。 横浜市では「日本最初の臨海公園」として位置づけている。
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夜の横浜みなとみらい21
夜に訪れた山下公園から眺める横浜みなとみらい21。 幻想的な世界へと引き込まれる。
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2009年、横浜港の開港150周年を記念して「たねまる記念碑」が建立。 横浜の礎を築いた先人の業績への感謝とこれからの横浜の発展に願いを込め、博覧会「開国博Y150」を開催。 マスコットの「たねまる」は開国博Y150のキャラクターで開港の丘に設置。 横浜市民から公募された508通のタイムカプセルが収納。 同カプセルは市民の夢をのせた絵やメッセージで、横浜港の開港200周年にあたる2059年に開封予定。 1854年、当地はペリー提督が2度目の来日で初めて横浜に上陸した場所で現在は象の鼻地区。
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象の鼻エリア
2009年に象の鼻パークとして再整備、敷地内には、多目的レストハウス「象の鼻テラス」、野外ステージを併設した開港の丘、開港波止場、象の鼻防波堤、スクリーンパネルを設置。 明治時代の貨物線の軌道を変えるターンテーブルの遺構や開港初期の石積み防波堤の跡なども展示。 象の鼻という名の由来は、防波堤が上から見ると象の鼻に似ていることから。
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2009年、横浜港開港150周年にあたり、象の鼻パークとして開園。 当地は横浜港発祥の地として知られ、象の鼻波止場は明治時代の形状に復元。 1859年、東波止場(イギリス波止場)と西波止場(税関波止場)の2本の突堤が幕府によって建設、横浜港が開港。 1867年、東波止場が湾曲した形に築造、その形状から象の鼻と呼ばれるようになる。 1896年、イギリス人技師・パーマーの設計により西波止場の先端に大さん橋が築造、西波止場の背面を埋め立て。 1923年、関東大震災により被災するも象の鼻波止場(東波止場)として復旧。 ガス灯を模した照明灯が設置、関東大震災で沈んだとされる防波堤の一部を当時のまま保存。
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草地広場「港の丘」があり、カフェや多目的スペースが併設。 象の鼻テラスにはシンボル「時をかける象(ペリー)」が設置。
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ペリー
横浜の150年の歩を見つめ続けてきたペリーには、これからの横浜と人類を力強く導く、対話と活力のシンボル。
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明治時代、港の荷役作業で使用された軌道と転車台の遺構。
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手押し車両用の設備
横浜税関敷地内に設置された手押し車両用の設備。
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毎年7月の第3月曜日に定められている日本の国民の祝日の一つ。 1995年、海の日として制定、1996年から施行された。 国民の祝日に関する法律(祝日法、法律第178号)第2条は「海の恩恵に感謝するとともに、海洋国日本の繁栄を願う」と定めた。 国土交通省は「世界の国々の中で「海の日」を国民の祝日としている国は唯一日本だけ」。 2007年、海洋基本法第13条で、海の日の行事を「国及び地方公共団体は、国民の祝日に関する法律第2条に規定する海の日において、国民の間に広く海洋についての理解と関心を深めるような行事が実施されるよう努めなければならない」と定めた。
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海の記念日
祝日化以前は海の記念日であり、1876年に明治天皇が東北地方を巡幸した際、従来の軍艦ではなく灯台視察船「明治丸」で航海し、7月20日に横浜港に入港して横浜御用邸伊勢山離宮へ帰着した史実から1941年に逓信大臣の村田省蔵が提唱して制定。 明治丸は東京商船学校の練習船として使用、現在は東京海洋大学越中島キャンパスに保存。 海に面していない奈良県は、海の日ではなく「奈良県山の日・川の日」と条例で定めた。
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日本の税関の一つで南東北および関東地方にある都県のうち、東京税関の管轄外である太平洋側の地域を管轄。 1859年、横浜開港と同時に「神奈川運上所」を開設。 1871年、神奈川運上所が横浜運上所に改称。 1872年、横浜運上所を横浜税関に改称。 1934年、横浜税関の本関庁舎(クイーンの塔)竣工。 1945年、米国の陸軍第8軍司令部が設置。 1952年、横浜税関音楽隊が発足。 1953年、東京税関を分離。 2007年、資料展示室「クイーンのひろば」がリニューアル。 設計は大蔵省営繕管財局。
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「横浜三塔」の一つ
1934年に完成した本関庁舎は緑青色のドームがシンボル「クイーンの塔」。 神奈川県庁本庁舎(キングの塔)、横浜開港記念会館(ジャックの塔)とともに「横浜三塔」の一つ。
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現在、京浜港横浜区と称される。 国際戦略港湾・京浜港(ハブ港)の一翼を担い、国土交通省より「国際コンテナ戦略港湾」に指定。 1859年、開港。 「安政の開国」による開港五港で、金港の美称を持つ。 国際貿易港(五大港)、日本三大貿易港などに含まれる。
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1930年、日本郵船が12000t級の貨客船として竣工させた。 横浜船渠(三菱重工業横浜製作所)にて建造。 北太平洋航路で運航、太平洋戦争では病院船として運用されてきたが1960年に引退し、現在、博物館船として公開されている。 国の重要文化財に指定。 船名「氷川丸」は、大宮氷川神社に由来。 ブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている。 姉妹船には2隻(日枝丸、平安丸)があり、「日枝丸」は東京千代田区日枝神社を、「平安丸」は平安神宮を祀った。
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横浜東水堤灯台
1896年、横浜東水堤灯台として竣工。 東水堤の先端に設置されていたが、客船と衝突後、移設された。 白灯台と同時に建造された北水提の「赤灯台」は現役であるとか。
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ライトアップされた氷川丸
夜間になると船全体がライトアップされ、昼間とはまた違った幻想的な世界を楽しむことができる。
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江戸時代、男性はちょんまげか総髪、女性は日本髪が一般的であった一方、西洋人は短く切って整えていた。 1859年、横浜港が開港し、外国人居留地が整備され、外国人が永住するようになり、西洋文化が日本国内に浸透するようになった。 日本で初めてとなる西洋理髪店は、外国人が開業。 1864年、外国人居留地(山下居留地)70番に建てられた日本で初めてとなるホテル「横浜ホテル」内でヨーロッパ人理容師ファーガスンが開業。 1869年、日本人としては初めて小倉虎吉が開業した。 1871年、明治政府による「断髪令」が発令、「散切り(ザンギリ)頭」と呼ばれ、文明開化の象徴にもなった。
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ザンギリ
モアイ像のような形をしているところが特徴の作品名「ザンギリ」。 目の部分には「ZAN GIRI」、口の部分には「YOKOHAMA」、彫刻の下には「ザンギリ頭をたたいてみれば文明開化の音がする」と刻まれている。
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神奈川県立県民ホールは、神奈川県営の劇場の総称。 神奈川県民ホールとKAAT神奈川芸術劇場の二棟から構成され、大小5つの劇場を持つ大型文化施設。 かつて当地には神奈川県山下町分庁舎があり、その跡地にドーム型仮設劇場である横浜21世紀座がオープン。 当時の芸術監督は坂東玉三郎が務め、こけら落としは連獅子が公演された。 敷地の一角には、1883年築で横浜最古の煉瓦造建築の旧居留地48番館、旧山下遺留地の遺構が保存、展示されている。
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1959年、横浜港が開港100周年を迎えた。 1961年、横浜港を象徴するモニュメントとして建造された。 高さ約106m。 灯台をモチーフとしたデザインが特徴で、頭頂部には灯台としての機能を併せ持っている。 また、ギネスブックには最も高い灯台として記録した。
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世界141カ国、1万点以上の人形と人形に関する資料を所蔵している。 1978年、御木本幸吉の秘書兼通訳であった大野英子のコレクションを横浜市に寄贈し、産業貿易センタービル内の横浜国際会議場に展示場「人形の家」が設置。 1927年、アメリカより寄贈され、横浜市に移管された本町小学校の「青い目の人形」の「ブロッソン」が展示。 コンセプトは「横浜発・世界の人形ふれあいクルーズ」。 1986年、ポーリン橋が竣工。 西前小学校に寄贈された青い目の人形の「ポーリン」の銅像がある。 反対側には「フランス橋」が架かり、中村川を渡り港の見える丘公園へ通じている。
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小高い丘の上に位置する都市公園で横浜市街地や横浜港を一望することができる。 1962年、風致公園として開園。 公園の名称は流行歌「港が見える丘」に由来。 「港が見える丘」とは1947年に発表された東辰三作詞・作曲、平野愛子歌唱による歌謡曲。 ちなみに作詞・作曲した東辰三は兵庫県神戸市出身。 園内には、フランス領事館遺構、イギリスの総領事官邸(イギリス館)、大仏次郎記念館、神奈川近代文学館、山手111番館などの施設がある。
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メダリオン
メダリオンは現在、フランス橋の下部で展示、保存。 1896年、フランス領事館はフランス山に建設、建物の両翼部外壁に装飾として取り付けられた。 RFは「Republique Francaise」(フランス共和国)のイニシャル。 周辺は、横浜港の開港当時から外国人居留地としてにぎわい、丘の上にはイギリス軍、下にはフランス軍が駐屯していた。
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横浜にはボストンや函館から切り出された天然氷を扱う企業が複数存在した。 ホテルのレストランやアイスクリームサロンで氷が供されたという記録も。 1879年、英国出身のアルバート・ウォートルス氏が日本で最初の機械製氷会社「ジャパン・アイス・カンパニー」を設立。 1881年、オランダ出身のストルネブリンク氏が競売で落札し、「横浜アイス・ワークス」に改称。 1923年、工場は関東大震災で倒壊。 1999年、神奈川日冷株式会社山手工場として稼働していた。
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飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ商店街。 全長約600m。 商店街の入り口には1985年に建設されたフェニックスアーチのシンボルが設置。 モデルは不死鳥。 イメージは「伝統を受け継ぎながら、常に新しく生きるフェニックス」で「翔べ光の中へ」の意味。 1859年、横浜港が開港、横浜村の一部住戸が隣接する本村に移転。 地名の本村を横浜元町に変更、元町の始まりとなった。
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外国の文化が日本に上陸
当時、農漁業に従事する住民が多かったが明治維新後、山手居留地に外国人が住むようになった。 商店街には外国人が行き来し、花屋・洋服屋・婦人帽子屋・西洋家具屋・パン屋・カフェ・キュリオシティショップなどが出店。 横浜山手は「ブラフ」(切り立った崖を意味する)と呼ばれていた。 外国人墓地はペリー艦隊の墓地として整備。
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元町商店街
1923年、関東大震災により外国商社の多くが東京に移転。 1945年、太平洋戦争の横浜大空襲により焼失。 終戦後、米国進駐軍が横浜に上陸、外国人らでにぎわう。 1946年、進駐軍との折衝を行う為、元町ショッピング・ストリート・アソシエーションの略字を使い元町SS会が発足。 女性向けファッション雑誌が横浜のお嬢様ファッションを取り上げ、「ヨコハマ・トラディショナル(ハマトラ)」として注目を集めた。
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シドモア桜という名称の由来となった米国出身のエリザ・R・シドモア氏とは著書「日本・人力車旅情(Jinrikisha Days in Japan)」など紀行作家として活躍。 1885年、来日し人力車で各地を訪ねた。 日本の文化や風俗を「日本・人力車旅情」として出版。 米国で日本の桜並木の素晴らしさを再現したいと、ワシントン市のポトマック河畔に桜並木の整備を提案。 1912年、世界的化学者で実業家の高峰譲吉氏の尽力もあり、東京市から桜の苗木が寄贈、船「阿波丸」は横浜港から出航。 シドモア氏はスイスで没後、横浜の外国人墓地に埋葬。 1991年、ポトマック河畔から里帰りした桜が墓の傍らに植樹。
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1989年、長さ約860m(中央支間長460m)の斜張橋(吊り橋)として開通した。 本牧埠頭A突堤(中区)と大黒埠頭(鶴見区)とを結ぶ(上層部は首都高速湾岸線、下層部は国道357号)。 設計は名港西大橋のデザイン案を、名称はサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジを参考にしたという。