大利鼎吉遭難の地
大阪府大阪市中央区瓦屋町1丁目11 松屋 町筋
1842年生まれ。
武市瑞山、通称、半平太の土佐勤王党に加わる。
藩を脱藩した土佐浪士達は進退に極まり、大坂に隠れ潜んだ。
土佐勤王党の残党である大利鼎吉、田中光顕、大橋慎三、池田応輔と善哉屋を営む石蔵屋政右衛門(本多内蔵助)らは、大坂市街に火を放ち、其の混乱に乗じて大坂城を乗っとるという計画を立てた。
1865年、万福寺(大阪市天王寺区)に屯所を置いていた大坂新撰組は、土佐藩浪士の不穏な情報を得、大坂出身の新撰組隊士の谷万太郎は谷三十郎、正木直太郎、阿部十郎を連れ、襲撃を実行。
そのとき、多くの浪士は外出中で、部屋にいたのは、店主で石蔵屋政右衛門(本多内蔵助)と大利鼎吉の2人のみであった。