関西が好っきゃねん
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宗右衛門町で遊び、島之内で学ぶ

宗右衛門町で遊び、島之内で学ぶ

まいどまいど! 日本最大規模の繁華街として知られるミナミでおまっせ。 ミナミとは俗に大阪市中央区の心斎橋、道頓堀、難波やその周辺のことを指しまんな。 まあせやけどここには、全国的に有名なくいだおれ太郎をはじめ、グリコやかに道楽、づぼらやなどの”にぎやか”で”華やか”な看板がぎょうさん目立つ界隈として知られてはりまんな。 ちなみに、キタとは、大阪市北区の梅田から中之島やその周辺のことを指し、ここには、西日本最大のターミナルとして有名な大阪・梅田駅がある他、梅田スカイビル、グランフロント大阪などの超高層ビル、大阪市役所などがある大阪市の中枢のエリアとして知られ、それぞれ、大阪市内の中心部にある船場の北船場、南船場から派生したと言われてまんねん。 そんな日本最大規模の繁華街として知られるミナミの一角に宗右衛門町と呼ばれる繁華街がおまして、ここにはレストランをはじめ、居酒屋などが立ち並んでまんな。 そのほか、島之内では道頓堀ゆかりの安井道頓・道卜、そして、住友財閥ゆかりの場所があり、歴史的にも文化的にも重要なエリアとして位置づけられてまんねん。 さあ、宗右衛門町と島之内を散策していきまひょ!

法性寺
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法性寺

1598年、真如院日信により創建。 1773年、鐘楼が建立。 薩摩藩御用商人・薩摩屋半兵衛の外護を受け、新選組に追われていた坂本龍馬が一時的に身を隠した。 オランダ人の在日医師として活躍したアントニウス・フランシスカス・ボードウィンが寓居として逗留し、大阪仮学校、大阪陸軍病院に勤務する傍ら、東京、大阪、長崎で蘭医学を広め、物理学や化学など養生所の基礎科学教育の充実に努めた。 江戸幕府・明治政府に医学・理学学校の建設を提言。 上野(東京都台東区)の自然が失われることを危惧して一帯を公園として指定することを提言(上野恩賜公園)。 日本初の検眼鏡を導入。 1945年、大阪大空襲によって焼失。

薬王寺(宗教法人)
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薬王寺(宗教法人)

初代中村富十郎は、初代芳澤あやめの三男。 兄に二代目芳澤あやめ、弟に三代目芳澤あやめ。 初名は芳澤崎彌。 初代中村富十郎と薬王寺。 幼少期、初代中村新五郎の養子となり、舞踊は初代中村京十郎、地芸は父の初代あやめの薫陶を受ける。 1719年、色子として舞台に立つ。 江戸に移り、中村富十郎の名で市村座を勤める。 京都の都万太夫座で座本となる。 「極上上大吉」と評され最高位、「古今無類の妙 大至極上上吉」「歌舞伎一道総芸頭」に置かれた。 時代物と世話物を兼ね、若女形を本領としたが、立役も勤めた。 江戸中村座で演じた「京鹿子娘道成寺」は人気を博した。 八文字屋自笑編により「慶子画譜」を出版。

小河滋次郎博士頌徳碑
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小河滋次郎博士頌徳碑

1864年、信濃国上田城下生まれ。 上田藩校明倫堂の後身校「松平学校」を卒業。 早稲田大学法律学科卒業、東京大学大学院法学政治学研究科修了。 在学中、穂積陳重の指導を受けて監獄制度に関心を持ったという。 法学博士号(東京帝国大学法科大学)授与。 内務省警保局監獄課に所属し、ドイツに留学しながら監獄状態を視察、警視庁典獄(監獄長)となった。 「未成年者に対する刑事制度の改良に就いて」で法学博士となり、監獄学の講師を務めた。 清国政府に招かれ獄制改革を指導。 帰国後、大阪府の救済事業指導嘱託となり、国立感化院院長事務取扱を経て、方面委員制度(民生委員の前身)の確立に尽力。

明治の詩人 薄田泣菫 顕彰碑
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明治の詩人 薄田泣菫 顕彰碑

1877年、岡山県倉敷市生まれ。 上京後、上野書籍館と漢学塾二松學舍(二松學舍大学)に通学。 帰郷後、作詩を「新著月刊」に投稿し、後藤宙外、島村抱月らに絶賛された。 以後、島崎藤村、土井晩翠らに続く蒲原有明とともに活躍。 「茶を飲みながら喋る気楽な世間話」と言う意味が込められた「茶話」の連載を開始。 大阪毎日新聞社学芸部部長に就任、兵庫県西宮市に移住し、自邸を「雑草園」と名づけた。 選抜高等学校野球大会歌を作詞。 「金剛山の歌」は、「新小説」に発表した作品で、本長寺に仮寓していた頃、毎朝早く起きて付近を散歩し、華やかな朝日を浴びて金色に輝く葛城山嶺に感動して歌ったもの。

妙寿寺
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妙寿寺

境内には田中金峰が眠る。 1844年、大阪市中央区北久宝寺町生まれ。 名は楽美金峰。 通称は右馬三郎。 幼少期、蔵書を読み漁り、自身で辞書を引くなど勉学に励んだ。 14歳の頃、父に代わって門生に「左伝」の講義を行った。 15歳で医学寮を設立。 漢方の施薬院では自身の蔵書を売り払い、経済的に貧しい人々に無料で治療を施した。 18歳で逝去。 代表作は江戸時代から明治時代にかけての当時の大阪の名所や風俗の様子を描いた「大坂繁昌詩」。 人々は「あなたは神童だ、人の及ばぬものを五つ持っている、一に従順で親孝行、二に慈悲深く人を憐れむ、三に博覧強記、四にもの静かで謙遜家、五になかなかの美男子だ」と絶賛。

往来安全の石灯籠
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往来安全の石灯籠

本政寺境内にある石灯籠。 本政寺は江戸時代、大坂城代松平忠明が大坂城下の整理再編を行った際、城下にあった仏教寺院を郊外に移転させた。 このとき、当地付近には多数の寺院が集まり、寺町が形成されたという。 1616年、日秀上人が開山。 年に1度公開される秘仏「日蓮聖人座像」がある。 また、相撲の大阪場所の際には境内の一部を大鵬部屋に貸していたという。

円妙寺
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円妙寺

別名、水の寺。 1615年、善行院日政上人によって開山。 かつては京都の頂妙寺の末寺であった。 境内には仁徳天皇献茶水(高津宮)縁の古井戸があり、その2つからは清水が湧き出している。 室町時代に建造された鐘楼堂の梵鐘を保存。 境内には、115歳で逝去した儒学者の一井鳳悟が眠る。 一井鳳悟は、雲州(島根県松江市)生まれ。 名は先宣、字は桐助、別号桐吾。 青年時代、学者を志して京に出て、江戸に移って林羅山に師事した。 大坂の両替町(大阪市中央区)で開塾。 当時、儒学の講義で多くは素読であったといい、鳳梧は孔子や孟子の文言を現在の社会情勢に置きかえて、常に討論を勉学の根幹とした。 著書は、鳳梧論説。

敷田年治先生百園塾址
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敷田年治先生百園塾址

1817年、豊前国宇佐郡の敷田村(現在の大分県)の二葉山神社の祠官宮本兼継の次男として生まれた。 以後、四日市町蛭子神社祠官吉松家の養子となった。 郷里の大儒の帆足万里、渡辺綱章らに学び、和学講談所の教官となる。 1863年、江戸の和学講談所に出仕、大阪に移住後、佐土原藩主島津忠寛に仕えた。 伊勢の神宮皇学館の設立に関わり、教頭に就任。 1888年、堀江に私塾「百園塾」を開塾させ、1897年に上本町に移転。

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