瀧廉太郎のゆかりの地めぐり
大分瀧廉太郎のゆかりの地めぐり
6月29日は天才作曲家「滝廉太郎」が、大分市で1903年に23歳で亡くなった日。 滝廉太郎のふるさとでもある大分県のゆかりの地をめぐりませんか? 瀧廉太郎作曲の主な曲 箱根八里、荒城の月、桃太郎、かちかち山、鳩ぽっぽ、雪やこんこ、お正月
大分県庁の横にある遊歩公園内の瀧廉太郎像。
終焉の地の看板
瀧廉太郎像の横には、終焉の地の看板もあります…子供の頃、滝廉太郎はここで交通事故で亡くなったと信じていた(笑)
瀧廉太郎終焉の地
瀧廉太郎は交通事故で亡くなったわけはなく、その終焉の地看板近く、サンサン通りのコダマサイクル前の住宅で23歳で亡くなったと言われています。
最後の曲「憾(うらみ)」
瀧廉太郎の最後の曲となった「憾(うらみ)」も、この終焉の地で病気療養の中、作曲されたと言われています。 憾 Youtube https://www.youtube.com/watch?v=KxSoqe9L13o
遊歩公園の銅像たち
この瀧廉太郎像のある遊歩公園は、日本でも珍しい民営の水族館「マリーンパレス(うみたまご)」の社長でもあった上田保氏に寄贈された銅像が並びます。
巨大な中央分離帯な…公園
で、大分の住民もなかなか行かない公園なのですが、のんびり歩くと結構非日常を楽しめます。
わずか23歳で病に倒れた瀧廉太郎の墓は大分市金池の万寿寺にたてれらえました。戒名は直心正廉居士。 現在、瀧廉太郎の墓は、瀧家ゆかりの日出町に移されている。 ちなみに万寿寺の別院は、高崎山にあり、高崎山自然動物園は万寿寺別院の境内にある。
大分市の万寿寺にあった瀧廉太郎の墓は、平成23年に瀧家の祖先たちが眠る大分県日出町の龍泉寺に移転した。
瀧廉太郎像
暘谷城跡にある日出小学校前には、瀧廉太郎像がある。
暘谷城
瀧廉太郎作曲の荒城の月はこの暘谷城がモデルだという説もある(私は、暘谷城が荒城の月の本当のモデルだと思っている)
瀧廉太郎が12歳から14歳まで暮らした屋敷を、瀧廉太郎記念館として公開している。館内には手紙や写真、直筆の譜面などがある。瀧廉太郎は亡くなる際、結核を患っており、多くの遺品は焼却されてしまっていることから、大変貴重なもの。
廉太郎トンネル
長さ15mほどの小さなトンネル。人が通る度に、廉太郎の作曲した曲が流れる。
岡城址
荒城の月のもうひとつのモデルと言われる、岡城址。 石垣の美しさに癒やされます。