
新川ってどんな場所?
東京新川ってどんな場所?
まいどまいど! 東京都のターミナル駅の一つとして知られる東京駅から少し歩いた場所に見えてくる中央区新川。 まわりを隅田川や亀島川に囲まれた小さな島になっていて、ぎょうさんの人が住む住宅地。 東京駅付近から延びる八重洲通の通過点の一つにもなってまんねん。 ここにはかつて越前藩の屋敷があったといい、今では公園として整備されてまんねん。 その公園内には越前藩で使用されていたとされる石垣の一部や堀川があったといい、堀川から転じて越前堀と呼ばれるようになったとか。 また、船員教育発祥の地としても知られ、大久保利通、岩崎弥太郎らゆかりの場所も。
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越前堀児童公園内にある石碑。 江戸時代、福井藩主松平越前守の屋敷地周辺にはコの字型に水路を整備。 通称、越前堀。 越前堀の護岸は石積で、今でも越前堀のものとみられる石垣石が出土。 明治時代、屋敷地は鍋島直大、福島敬典(敦賀藩士、後に海軍少将)、川合執銀、橋本善四郎などに分割。 1930年、内陸側は埋め立てられ、一部には関東大震災後の震災復興公園帝都復興小公園として越前堀公園(越前堀児童公園)が整備。 1993年、八重洲通りが整備。
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越前堀児童公園内にある石碑。 周辺は一面の沼地葭原であった。 1624年、雄誉霊巌上人が霊巌寺を創建。 1635年、福井藩主松平越前守の屋敷地となった。 1657年、江戸の大火で、霊巌寺は全焼。 深川白河町に転じ、跡地は公儀用地となって市内の町々が替地として集団的に移転。 大正時代、大震災により焼失。
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大久保利通は明治政府の自立的な海運改革を進めるにあたり、船員教育の急務を提唱。 1875年、三菱会社長岩崎弥太郎に命じてこの地に商船学校を開設。 当地は隅田川口にあたり、海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域で、成妙丸を係留して校舎とし、全員を船内に起居させて行われた。 現在は江東区にある東京商船大学に継承。