浪花のビリケンさんと神戸のビリケンさん
兵庫浪花のビリケンさんと神戸のビリケンさん
まいどまいど! 大阪を代表する観光名所の一つといえば大阪・新世界にある通天閣やおまへんでっしゃろか。 通天閣の展望台には昔から愛されてきたビリケンさんが鎮座し、ぎょうさんの観光客の願い事を聞いたり、記念撮影を楽しんではります。 そんなビリケンさんでんねんけど、実は米国出身。 1908年に米国の女性芸術家フローレンス・プリッツ氏が「夢の中で見た神様」をモデルとして制作された作品が起源ともいわれてまんねん。 いつしか日本にも上陸し、神戸に初登場。 大正時代、神戸・元町の洋食店主が米国の水兵が持ち込んだものを参考にして木を彫って作ったといい、木製で右手に打ち出の小槌、左手に宝珠の珠、米俵の上に腰を掛け、背中に大判を背負うという和洋折衷の像となってまんねん。 その後、神社に奉納され、「ジャパンビリケン」と呼ばれ、人気となったとも。 神戸の兵庫区は流通革命を起こしたスーパーマーケット・ダイエー(イオンの前身)を創業した中内功氏の生誕地(サカエ薬局)。 淡路島出身の富豪・高田屋嘉兵衛のゆかりの地。 かつての時代を偲びつつ、今と昔が交錯する兵庫区を散策しまひょ!
祭神は宇賀之魂。 創建時期など詳細は不明。 1336年、楠木正成ゆかりの松に因み、社号を松尾稲荷とした。 楠木正成は湊川の戦いの出陣し、湊川の西の堤に立つ松の大木を目印に一族郎党の集合を命じた。 その時、神仏の護符が戦による血で穢れるのを嫌い、松の側の稲荷の祠にそれを収めたとも。 1914年、社殿を造営。 戦前、新開地付近に鎮座し、商売繁盛、縁結び、恋愛成就の神としても信仰を集め、参詣客の多くは商人や劇場の役者、福原の遊廓で働く芸妓、喫茶店の従業員など。 現在、約350個の提灯が並び、「提灯持ちのお稲荷さん」との異名も持つ。
米国渡来の福神ビリケン像
別名、松福さん。 ビリケン像は大正時代、神戸・元町の洋食店主が米国の水兵が持ち込んだものを参考にして木を彫って作り、店前に安置。 木製で右手に打ち出の小槌、左手に宝珠の珠、米俵の上に腰を掛け、背中に大判を背負うという和洋折衷の像。 その後、神社に奉納され、「ジャパンビリケン」と呼ばれ人気を博した。 現在、ビリケン像としては日本最古のものとされ、世界各国のビリケン約100体余りが集められている。
当地はイオンの前身にあたるスーパーマーケット・ダイエーを創業した中内功氏の実家跡。 中内氏は日本で初めてとなるスーパーマーケットを創業。 父・中内秀雄氏は、大阪薬学専門学校(現在、大阪大学薬学部)卒業、鈴木商店に入社したが退職し、薬屋を開業。 1922年、中内功氏は、大阪市此花区伝法で生まれ、兵庫県立神戸高等商業学校(現在、兵庫県立大学)を卒業、実家のサカエ薬局に就職。 旧制神戸経済大学(現在の神戸大学)に進学するも、中退。 1957年、サカエ薬品を退職し、兵庫県神戸市長田区で大栄薬品工業株式会社を設立。 大阪市旭区の千林商店街で主婦の店ダイエー薬局を開業。
大阪市旭区の千林商店街
生涯、医薬品や食品を安価で販売する「薄利多売」「価格破壊」がモットーとなり、流通業界に革命を起こした。 また、小売業での売上高1位となったと同時に、売上高一兆円を達成。
別名、高田屋嘉兵衛記念館。 地区内外の交流の場を目的に設立。 施設内では高田屋嘉兵衛に関する資料が展示、保存されている。 高田屋嘉兵衛とは江戸時代に活躍した廻船業者、海商。 1769年、兵庫県洲本市生まれ。 叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫県神戸市に存在した兵庫津で船乗りとなり、「高田屋」を立ち上げ、日本海の湊を結びながら大坂と蝦夷地を行き交う廻船問屋の廻船商人として進出。 当時としては国内最大級となる船「辰悦丸」を建造し、国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献。 ゴローニン事件ではカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立って事件の解決に導いた。
高田屋嘉兵衛が交易の拠点として構えた「高田屋嘉兵衛本店の地」。 高田屋嘉兵衛とは江戸時代に活躍した廻船業者、海商。 1769年、兵庫県洲本市生まれ。 叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫県神戸市に存在した兵庫津で船乗りとなり、「高田屋」を立ち上げ、日本海の湊を結びながら大坂と蝦夷地を行き交う廻船問屋の廻船商人として進出。 当時としては国内最大級となる船「辰悦丸」を建造し、国後島・択捉島間の航路を開拓、漁場運営と廻船業で巨額の財を築き、箱館の発展に貢献。 ゴローニン事件ではカムチャツカに連行されるが、日露交渉の間に立って事件の解決に導いた。
祭神は宇迦御魂大神。 創建時期など詳細は不明。 1802年、地元の有志らは京都・伏見稲荷大社の分霊を勧請、兵庫の津を一望できる場所に奉祀したのが始まり。 航海操業の安全、商売繁昌、家内安全の神として信仰を集めてきた。 境内には、「文化十年酉十一月吉日」(1813)、「文政元年寅六月吉日」(1818)と刻まれた石灯籠二基が現存。 かつて現在地より東部に鎮座していたが、1954年に遷座。 また境内には「高田屋嘉兵衛顕彰碑が建立」。 高田屋嘉兵衛とは江戸時代に活躍した廻船業者、海商。 1769年、兵庫県洲本市生まれ。
高田屋
叔父の堺屋喜兵衛を頼って兵庫県神戸市に存在した兵庫津で船乗りとなり、「高田屋」を立ち上げ、日本海の湊を結びながら大坂と蝦夷地を行き交う廻船問屋の廻船商人として進出。
兵庫県神戸市に鎮座する生田神社の周辺に点在する生田裔神八社の1社。 近年は「港神戸守護神 厄除八社」とも呼ばれ、数字の順に巡ることを八宮巡りといい、厄除けになるとも。 祭神は大己貴命、大日霊貴命、天児屋根命。 祭神の大己貴命は大国主命、大物主神、葦原醜男、八千矛神、大国玉神、顧国王神の七つの御名を称えて七宮神社という。 神功皇后三韓征伐凱旋の時、大国主神を山の尾の波打ち際に奉斎。 1161年、経が島築造で難航した平清盛は、家臣阿波民部重能の進言を受け、社殿を造営。 廻船業を営む高田屋嘉兵衛は幕府の命で巨船を造り、国後島・択捉島に出向く前、模型船3隻を献納して海上安全を祈願。
神戸大空襲
1945年、神戸大空襲により焼失。
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平安時代、福原に都が造営。 柳原は兵庫の西端に位置していたが、かつて、当地にあった柳の大樹が由来するという。 また、柳原惣門があったとされ、西国街道の出入口として、また役場としてにぎわっていたとか。 古名の「大輪田の泊」は良港として栄えていた。 1580年、兵庫城が築城されたと同時に外輪堤として建造され、都賀の堤(兵庫の外廓)で一廓をなしていたという。 兵庫津は尼崎藩領であったが、天領となった。
兵庫県神戸市兵庫区に築城されたとされる兵庫城の外郭堀跡「都賀堤」は兵庫の町を囲むように築かれた。 説明板には絵図「兵庫全津外溝」も。
臨済宗南禅寺派の仏教寺院。 開創年代など詳細は不明。 開山は仏僧国師約翁徳倹。 開基は木下源太。 大きな柳の木があったので柳原と呼ばれていた当地で柳の木の下に住んでいた木下源太兵衛夫婦は、不思議な僧に宿を貸した。 それをきっかけに味噌長者となり、仏さまに感謝して門口町にある福厳寺を建立したとか。
通称、柳原えびす。 祭神は、蛭子大神、大物主大神、兵庫七福神の恵比寿。 創建時期など詳細は不明。 古くは、蛭子命天磐櫞船に乗りて淡海島より津国に遷座し、一社が創建。 毎年8月22日、西宮神社までの神幸の渡御が行われ、神輿の行在所となっていた。 その後、現在地に遷座し、一社として創建。 境内には水の神を祀る社が鎮座しており、雨乞いが行われていた。 西宮神社や今宮戎神社と同様、商売繁盛を願う十日戎は毎年1月9日から11日までの3日間、開催され、淡路人形浄瑠璃 福神楽「戎舞」が奉納されている。
天台宗の仏教寺院。 山号は、宝積山。 本尊は、薬師如来。 805年、日本最初の密教教化霊場として、最澄(伝教大師)により創建。 1180年、平清盛ゆかりの寺としても知られ、福原京遷都計画に伴い、平家一門の祈願寺に定めた。 兵庫七福神めぐりの一つに数えられ、能福寺は毘沙門天。 1891年、豪商・南条荘兵衛の寄進により大仏が建立された。 当時は、日本三大大仏の一つに数えられた。 第二次世界大戦中、金属類回収令で国に供出され、解体。 1991年、再建。
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天満宮の一つ。 菅原道真公は九州・大宰府へと左遷される途中、大和田泊に上陸。 真野ケ原一帯の梅花を賞で、「風さむみ雪にまかへて吠く花の柚にそうつれ匂ふ梅が香」と詠んだ。 905年、里人が道真の遺徳を偲び、梅林を拓いて小祠が建立。 1167年、太宰府安楽寺の菅公廟より分霊。 時宗の2世・他阿が満福寺を建立以後、明治時代まで僧侶が奉仕。 1182年、平忠度が戦勝を祈願して「大神画像」を奉納。 1336年、新田義貞が武運長久を祈り、豊後國行の銘刀を奉納。 1580年頃、摂津伊丹城主の荒木村重が國次の短刀を奉納。 1772年、前権大納言の藤原定福が拝殿の柱懸双聯を奉納。
大輪田泊は僧侶・行基が開いた播磨・摂津の港「摂播五泊(室生泊・兵庫県たつの市、韓泊(福泊)・姫路市、魚住泊・明石市、河尻泊、尼崎市)」の一つ。 古くは「務古の水門」「敏馬の浦」と呼ばれ、朝鮮半島と交易。 平安時代、平清盛が日宋貿易の拠点「大輪田泊」に大修築、関西から中国と九州へ向かう航路の船泊りとして築かれた。 鎌倉時代、兵庫津と呼ばれた。 室町時代、日明(勘合)貿易、朝鮮通信使の寄港地となり、江戸時代には北前船、尾州廻船など瀬戸内海運の拠点となった。 江戸時代、尼崎藩の支配下から幕府領に移った後、大阪奉行所が兵庫津を管轄のため、行政区分を三分割。
岡方倶楽部と総会所
岡方はこの三方(南濱、北濱、岡方)の一つにあたり、西国街道に接する海運、陸運の結節点として繁栄。 総会所とは町の町政を司った町役人の筆頭に位置する役職にあたる惣年寄の会所(事務所)。
1927年、岡方倶楽部は岡方惣会所の跡地に兵庫商人の社交場として建造。 設計は高松吉三郎。 鉄筋コンクリート3階建、大正時代に流行したセーセッション(分離派)と呼ばれる様式の一例。
大輪田泊は僧侶・行基が開いた播磨・摂津の港「摂播五泊(室生泊・兵庫県たつの市、韓泊(福泊)・姫路市、魚住泊・明石市、河尻泊、尼崎市)」の一つ。 平安時代、平清盛が日宋貿易の拠点「大輪田泊」に大修築、関西から中国と九州へ向かう航路の船泊りとして築かれた。 鎌倉時代、兵庫津と呼ばれた。 江戸時代、幕府の政策や罰則事項などを庶民に伝える為、「高札」「制札」が各町の要所に建立。 庶民はその場所を「札の辻」「札場の辻」などと呼んだ。
大輪田泊は僧侶・行基が開いた播磨・摂津の港「摂播五泊(室生泊・兵庫県たつの市、韓泊(福泊)・姫路市、魚住泊・明石市、河尻泊、尼崎市)」の一つ。 平安時代、平清盛が日宋貿易の拠点「大輪田泊」に大修築、関西から中国と九州へ向かう航路の船泊りとして築かれた。 当地には大輪田泊の遺構である石椋が現存。 石椋とは石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設。 古代大輪田泊の石椋(花崗岩の巨石)は、新川運河浚渫工事の際に発見された。
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神戸市内を流れる兵庫運河(兵庫運河・兵庫運河支線・新川運河・苅藻島運河・新湊川運河)にある水門の一つ。 水門には神戸市内を中心に活動するおもてなし武将隊「神戸・清盛隊」と「清盛ゆかりのまち兵庫」が描かれている。 2012年、おもてなし武将隊「神戸・清盛隊」は大河ドラマ「平清盛」放映に合わせ、神戸市観光キャンペーン「KOBE de 清盛 2012」のPRキャラバン隊として結成。 コンセプトは「平安時代より呼び起こされスマホ型タイムマシンで平成に『やって来た』」。 平家の歴史と生き様、想いをテーマとした歌・殺陣・語りを融合させた「演舞」を披露。
1905年、三菱倉庫の前身にあたる東京倉庫兵庫出張所として建設。 特徴はレンガ造り、平屋建て、正面入り口のアーチ上に三角形の装飾(ペディメント)が置かれている。 設計は曾禰達蔵氏。 曾禰達蔵氏は帝国大学の前身にあたる工部大学校造家学科の第1回卒業生で、東京・丸の内の「れんが建築群」や旧三菱銀行神戸支店を手がけた。 現在、石川本社ビルとして使用されている。