江戸城跡をめぐる皇居を散策
東京江戸城跡をめぐる皇居を散策
まいどまいど! 時は江戸時代、徳川家康が江戸幕府を開幕し、現代の日本の礎を築いた場所がありまんな。 それは、東京都千代田区。 ここには、新幹線や在来線、地下鉄などが乗り入れる世界でも最大規模の東京駅があり、その東京駅から徒歩圏内に江戸城址が見えてきますねん。 江戸城址には大阪・南河内出身で大楠公という異名でも知られる楠木正成の銅像があり、今でもその偉業が語り継がれてはりまんな。 また、江戸城址は皇居となっておまして、基本的には内部に立ち寄ることはできまへんけども、時々は一般開放され、その模様がテレビや新聞などのメディアで取り上げられてまんな。 そんな皇居周辺では桜田門外の変で有名となった桜田門や靖国神社が鎮座し、独特の雰囲気が漂っている。 さらに、東京オリンピックの柔道競技会場として建設され、ビートルズのコンサートが実現し、最近では日本テレビ系列「24時間テレビ」のメイン会場に使用されている日本武道館があり、めぐってみることにしまひょ。
1606年、江戸城の本丸御殿が完成。 以後、地震や火災により倒壊・焼失し、その度に再建。 1863年、焼失以降、再建されずに西ノ丸御殿に機能を移転。 現在、本丸御殿跡は芝生の広場になっている。 写真右には、江戸城跡、本丸跡など。 写真左には、宮内庁や皇居がある。
武蔵国豊嶋郡江戸にあった日本の城。 江城、千代田城とも呼ばれる。 麹町台地の東端に位置する江戸城は、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築城。 徳川氏によって改修され、日本最大の面積を誇る城郭となった。 徳川家康が江戸城に入城して以後、徳川家の居城となった。 江戸時代、江戸幕府が開幕し、幕府の政庁となった。 明治時代、首都機能は京都から大坂(大阪)へと遷都する案が大久保利通らによって浮上したが、前島密らが反対。 大坂は短期間、首都となるも、東京への遷都が確定。 以後、吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。 国の特別史跡に指定。
現在も江戸城氏の名残らしく、多くの門が現存している。 その中でも、興味深いのは、坂下門。 1862年、老中・安藤信正が水戸浪士によって襲撃され負傷した「坂下門外の変」の現場となった。 明治時代以降、皇居の重要な入口のひとつとして使われ、宮内庁の出入口(通用門)として利用。 警備が厳重なため、立ち入り不可。
二重橋は、皇居内にある正門鉄橋と正門石橋の二つの総称。 新年や天皇誕生日など、皇居一般参賀時には正門が開放され、自由に出入りすることができる。
橋を渡ると、皇居へと続く
江戸城の名残と皇居。 観光客らはこの付近に立ち寄り、遠くに見える江戸城址や皇居などを眺めながら、記念撮影を楽しんでいた。
宮内庁や宮内庁関連の省庁が密集する界隈。 第二次世界大戦後、宮城の名称が廃止。 現在、皇居と呼んでいる。 天皇の住居は「御所」、各種公的行事や政務の場である「宮殿」、宮内庁庁舎などがある。 江戸時代、天皇は京都で過ごしていたため、御所、禁裏、内裏などと呼ばれていた。 明治維新後、東京行幸の後に留守となり、天皇の指示で保存されて現在に至る。 現在は、京都御所と称される。 行幸後、大坂に一時滞在し、首都ととなった。 首都機能が東京に遷都後、京都御所は保存され、文化財となっている。
1860年、水戸藩浪士らによる大老・井伊直弼の暗殺事件「桜田門外の変」が起きた場所。 当初、小田原街道の始点であったため、小田原口と呼ばれていた。 1636年、改築。 正式名称、外桜田門。 由来は、当地周辺が「桜田郷」呼ばれていたことから。 内桜田門(桔梗門)に対して命名。
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鎌倉時代から南北朝時代にかけて活躍した武将。 大阪府南河内郡千早赤阪村出身。 大阪府内では富田林市や茨木市、兵庫県内では神戸市などでその名を残している。 楠木正成は得宗被官でありながら後醍醐天皇による鎌倉幕府の倒幕計画に貢献、 建武の新政の立役者として足利尊氏らと共に天皇を助けた。 尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。 明治時代以降、「大楠公」と称されるようになった。
1964年に開催された東京オリンピックの柔道競技会場として建設。 日本テレビ系列「24時間テレビ」のメイン会場。 設計は山田守、施工は竹中工務店。 モデルは法隆寺夢殿。 八角形の上にある大屋根のイメージは富士山。 日本の武道(柔道・剣道・弓道・相撲・空手道・合気道・少林寺拳法・なぎなた・銃剣道・古武道)の稽古場、競技場、ダンス、マーチングバンド・バトントワリングの競技会に使われるほか、音楽祭、コンサート、格闘技(プロボクシング、プロレスリング、総合格闘技)の興行会場、大学や企業などの大規模な入学式・卒業式・株主総会の会場。 1966年にビートルズのコンサートも行われた。
祭神は、幕末から明治維新にかけての時代に活躍した志士。 1853年のペリー来航(黒船来航)以降、日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀る。 柱数(柱は神を数える単位)は200万以上に及ぶ。 国家神道の代表的な施設の一つとして知られ、日本の内閣総理大臣や国務大臣の公式参拝が話題となり、時に国際問題化することも。