
水道記念館と崇禅寺と県庁跡が楽しめる大阪市東淀川区
大阪水道記念館と崇禅寺と県庁跡が楽しめる大阪市東淀川区
まいど! 東海道新幹線・新大阪駅がある大阪市淀川区の東に位置する大阪市東淀川区には、水道の歴史について学ぶことができて、琵琶湖・淀川水系の淡水魚、貝類などを多く飼育する淡水魚水族館などがある水道記念館がおまっせ。 しかも、水道記念館は、歴史ある建築物として知られ、国の登録有形文化財に指定されてまんねん。 煉瓦造りで、モダニズム建築(近代建築物)として注目を集めてはりまんねん。 そして、次にご紹介したいのは、崇禅寺でんな。 かつて、大阪府や兵庫県が誕生する前、崇禅寺に摂津県・豊崎県の県庁が置かれてましたんや。 今では閑静な住宅街に囲まれた場所にあり、静かなお寺さんでんねんけど、その歴史を今に伝えようと石碑が建立されてまんねん。 そして、次にご紹介したいのは、淡路と言う地名でんな。 学問の神様として知られる菅原道真は太宰府に左遷される際、兵庫県淡路島と勘違いして、この場所を訪れた。 それが縁で、大阪市東淀川区に「淡路」と言う地名が誕生し、阪急電車京都線・千里線の駅名にも使用されてまんねん。 淡路島とは程遠い街並みでんねんけど、何よりも歴史がおもろいまち・大阪市東淀川区が、よろしおまっせ!
大阪市の水道の歴史について学ぶことができる。 また、琵琶湖・淀川水系の淡水魚、貝類などを多く飼育する、淡水魚水族館でもある。 1995年、設立。 大阪市の水道通水100周年を記念した。 構造は、地上1階で煉瓦造、延床面積1758㎡。 屋根形式は、寄棟造。 1999年、国の登録有形文化財に登録。 夜間は、ライトアップされている。
740年、行基により創建されたとされる。 1446年、嘉吉の乱により赤松満祐に殺害された足利義教の首は、本領に引き上げる途中の赤松氏軍勢によってこの寺に放置された。 この因縁により、以後、義教の菩提寺の一つとなり、管領細川持賢により伽藍と所領を寄付され曹洞宗に転宗、また細川氏菩提寺の一つとなった。 明治時代、一時、摂津県の県庁が置かれていた。 境内は大阪府史跡、大阪市史跡に指定されている。
摂津県・豊崎県 県庁所在地跡
1872年、この地に摂津県庁舎がおかれた。 その後、豊崎県へ改称し、兵庫県と合併する。
かつて榊神社と称していた。 祭神は、稲倉魂神である。 1578年、奈良にある春日神社の御分霊を勧請遷祀して春日神社と改称した。 境内には樹木が茂り、樹齢400年を超える楠がある。 1685年、本殿が建立された。
この場所は、日本仏教史研究の専門家として知られる辻善之助氏のゆかりの地である。 1877年、兵庫県姫路市生まれ。 1893年、兵庫県立姫路西高校に入学し、東京大学に進学する。 1904年、日本仏教史の研究を進め、東京帝国大学より文学博士の学位を受けた。 1902年、東京大学史料編纂所に入所。 この公園は辻善之助氏が寄与したという。
柴島晒ゆかりの地
晒は、さらしと読む。 晒とは、白くなった麻布、綿布のことを言う。 淀川という豊かな水に恵まれ、生産地となった。 1600年頃、生産を開始した。 また、地下水も豊富であったという。 繊維の問屋街としても知られる船場へも近く、さまざまな環境に恵まれて発達したという。 その後、衰退の一途をたどり、1900年頃には姿を消した。
1678年、摂津国西成郡の北中島地域に属していた農民らが、自力で開いた排水路である。 北中島地域とは現在の東淀川区、淀川区、西淀川区にあたる。 地元で負担して、大水路を完成させた。 その後、水路は淀川改修のため、埋め立てられた。
開基は、行基と伝えられる。 かつて、西光寺と称していた。 1382年、楠木正成の孫のである政勝は、千早の赤坂城陥落後、ここに隠棲したと言う。 その後、当寺に蓮如上人が留ったとき、定専坊と名付けたという。 境内には楠木政勝とその子にあたる正盛や信盛の墓がある。 梵鐘は、石山本願寺にあったものと伝えられている。 織田信長との交戦のとき早鐘に用いていたという。
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祭神は、安閑天皇・聖徳太子である。 安閑帝は当地に行幸、牛を放牧して開発をはかった。 当初、聖徳太子は四天王寺をこの地に建立を計画した。 鎌倉時代初期、当社には太子画像を蔵し、また地名も天王寺庄がある。 かつて社殿は、淀川に面していた。 当時、森林に囲まれて「大宮の森」といわれていた。 1900年、淀川改修により、現在地に移転した。
901年、菅原道真は当地に立ち寄り、小松が生い茂る中島の景観を見て感動した。 そのとき、「小松の詩」を吟じたことが由来となり、「小松」は現在の地名となった。 かつて当地は、淀川尻にあった難波八十島の1つであり、中島と呼ばれた。 菅原道真の没後、村人たちは、「小松の天満宮」として祠を建て、村の氏神として崇めた。 拝殿は社務所と共に、四条畷神社の旧社殿を移築した。 梅は、太宰府天満宮の「飛び梅」が移植されている
1167年、歌人として知られる西行法師は天王寺へ参詣の途中、江口の里で時雨にあい、一軒の里家で雨宿りを乞うた。 即興の歌が縁となり、妙は仏門に入った。 妙(光相比丘尼)の亡き後、江口の人々が、冥福を祈って江口の君堂を建設した。 明治時代、普賢菩薩の化身であるとされる光相比丘尼は、子宝に恵まれるよう多くの人が祈願に訪れたと言う。
この地では、山口遺跡と呼ばれ、弥生式土器が出土している。 1813年、芭蕉の句碑が建てられた。
東淡路商店街は、東淀川区でも古い商店街で、戦前から現在に至る。 戦後、淡路銀座通りとして復興した。 その後、アーケードが設置された。 現在では、主に、飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ちならぶ。 駅前なので、通勤客・通学客でにぎわっている。 付近には、木川本町商店街などがある。
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市民の憩い場として親しまれている。
電気機関車のEH10型61号機
公園の一角には、電気機関車のEH10型61号機が静態状態で保存されている。 現在も珍しい車両として保存されており、全国から鉄道ファンが訪れてくると言う。
1756年、南紀太地浦(現在の和歌山県太地町付近)でクジラ漁を営む村に、瑞光寺の住職・潭住知忍禅師が立ち寄ったと言う。 当時、村民は、不漁に苦しんでいた。 知忍禅師によって、豊漁となったと言う。 これにより、村民たちは、瑞光寺にクジラの骨を納め、「雪鯨橋」が建造された。 2006年、6度目となる雪鯨橋の架け替えを終えた。
公園やその周辺には、約1000本の緑が植えられている。 1975年、公園が完成し、東側には、「太陽の下、みどりと、やすらぎと」と題した記念像が配置されている。 かぶと公園の「かぶと」の由来は、源平の戦いに敗れた平家の落武者平景清が、かくまってくれた伯父の三宝寺大日房能忍を過って殺害したのを悔やみ、二度と武士には戻るまいと、このあたりで冑(かぶと)を脱ぎ捨てて立ち去ったと言い伝えられていることから。 現在では、市民の憩いの場として親しまれている。
大阪市中央区にある高麗橋を始点として、大阪府吹田市を経由し、京都府亀岡市へと続く街道である。 かつては、牛馬によって年貢米や青果物などを運搬した。
現在の史料館周辺は、区画整理事業が施行されるまで、農村地帯だった。 その昔、住民が実際に使用した多くの農機具や生活用具を中心として展示・永久保存をはかる。 また、宅地化されていく過程が、写真・図版等によって展示・保存されている。
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政治的不遇を被った菅原道真の怒りを静めるために、神格化し祀る。 別名、天神や、天神さんとも呼ばれる。 社名は、天満神社(てんまんじんじゃ、てんまじんじゃ)。 また、周辺にある「淡路」や「菅原」の地名は、菅原道真が大宰府に左遷される際、当時、淀川下流の中洲だったこの地を淡路島と勘違いして上陸したという故事にちなんだ地名であるとされている。
川のせせらぎがあり、市民の憩いの場となっている。 また、車道とは別に整備されているため、道幅が狭く、車両の進入は不可能である。 かつては、多くの橋が架かり、その名残として、多くの石碑が当時の橋の面影を伝えている。
祭神は、応神天皇。 昔、淀川が氾濫した。 この時、賀茂神社の神体が漂着したので賀茂神祠と祢した。
乳牛山大道寺跡
禅宗 曹洞派 乳牛山 大道寺跡。 かつて、この地域は、乳牛牧の荘とも呼ばれ、大道村、辻堂村、三宝寺村の3つがあった。 氏神として賀茂大明神、稲荷神、山王神を三社相殿として、本社となった。 そして、祇園・伊勢・春日・八幡・天神を五神相殿として、末社となった。 無本寺は三大院へと改称。 玄光和尚は大道寺へと改称した。 三世雲門和尚は、大道寺・竹凉庵を廃した。 その後、賀茂大明神社は大隅神社へと改称。
乳牛牧跡
かつてこの地域に住む住人は、牛を飼育し、牛乳やチーズなどを製造していたため、「乳牛牧」と呼ばれていた。 そのため、田畑を開拓して、田畑が広がった。 1440年頃、細川持賢により崇禅寺に寄進された。