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arigoma27
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友人と2人で現地自由行動のツアーで行きました。
時間を有効に使いたかったので結局オプショナルで連れて行って貰いましたが電車も結構走っているのでぷらっといくのもありです。

せやせや!関西が好っきゃねん
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岸和田の郊外で見つけた日常

岸和田の郊外で見つけた日常

まいどまいど! 全国的に「だんじり祭り」で知られる大阪府岸和田市っちゅう場所でんねんけど、市内各所にはだんじりにまつわる名所が点在し、祭りが開催された日には全国各地から見物客が訪れる街としても知られてはりまんな。 東岸和田駅では山車の「だんじり」「地車」の紹介も。 まあ、せやけど、だんじり祭り以外の岸和田っちゅうのを皆さん、ご存じでっしゃろか。 そんな岸和田市郊外の日常っちゅうのを、皆さんにご紹介していきたいと思います。 岸和田城やだんじりまつりにまつわる博物館がある中心部から離れると閑静な住宅街が広がり、神社や寺院が点在し、古墳などのような古代の歴史も。 中央公園にはかつて春木競馬がおまして、関西地域を代表する競馬場として知られてましたんやね。 岸和田市中央公園として整備され、日本の都市公園100選に選定。 現在、スポーツ広場、テニスコート、プール、岸和田市総合体育館が存在してまんねん。 日本国内で唯一の施設として知られるフィーエルヤッペンの競技場があり、公園南西側には、トラックの跡も。 平安時代、百人一首の歌人、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙として活躍した和泉式部にせまる。

東岸和田駅
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東岸和田駅

西日本旅客鉄道(JR西日本)阪和線の停車駅の一つ。 1930年、阪和電気鉄道の土生郷駅として開業。 1932年、阪和岸和田駅に改称。 1940年、阪和電気鉄道が南海鉄道に吸収合併され、南海山手線の駅となる。 1941年、東岸和田駅に改称。 1944年、国有化され、運輸通信省(国鉄)阪和線の駅となる。 1987年、国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道(JR西日本)となる。

和泉式部ゆかりの恋の淵
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和泉式部ゆかりの恋の淵

古来この地に清泉が湧出するところから、恋多き女性和泉式部の旧蹟とも。 平安時代、百人一首の歌人、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙として活躍した和泉式部。 978年、越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘として誕生。 999年、和泉守・橘道貞と結婚。 母は冷泉天皇皇后昌子(太皇太后)に仕えた、父が太皇太后宮大進、夫の和泉守橘道貞が同権大進を兼ねていた。 恋愛遍歴が多く、藤原道長から「浮かれ女」と評されたとも。 同僚女房の紫式部からは「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評されたとも。 真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌に表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。

和泉式部筆塚碑
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和泉式部筆塚碑

和泉式部の愛用していた筆を祀った塚とも。 平安時代、百人一首の歌人、中古三十六歌仙、女房三十六歌仙として活躍。 978年、越前守・大江雅致と越中守・平保衡の娘として誕生。 999年、和泉守・橘道貞と結婚。 母は冷泉天皇皇后昌子(太皇太后)に仕えた、父が太皇太后宮大進、夫の和泉守橘道貞が同権大進を兼ねていた。 恋愛遍歴が多く、藤原道長から「浮かれ女」と評されたとも。 同僚女房の紫式部からは「恋文や和歌は素晴らしいが、素行には感心できない」と批評されたとも。 真情に溢れる作風は恋歌・哀傷歌・釈教歌に表され、殊に恋歌に情熱的な秀歌が多い。 才能は大歌人・藤原公任にも賞賛され、赤染衛門と並ぶとも。

春木川緑道
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春木川緑道

大阪府岸和田市内を流れる二級河川の春木川沿いに整備された緑道。 尾生町の東谷橋より上流を轟川と呼ぶ。 標高約295mの神於山に源を発し、北へ流下し、大阪湾に注ぐ。 水源の神於山は、和泉葛城連山の前山にあたる。 同川が形成する浸食谷は尾生谷と呼ばれる。 弥生時代、水田耕作が行われ、久米田古墳群などの遺跡が残る。 周辺には久米田池や蜻蛉池などの溜池が造成。 700年代、聖武天皇が行基に命じて久米田池を建造、久米田寺が開かれた。 現在、府内最大規模の溜池となった。 近代、和泉煉瓦の工場、岸和田紡績野村工場の社宅、和泉紡績の工場が建設。

積川神社(つがわ じんじゃ)遥拝所 鳥居
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積川神社(つがわ じんじゃ)遥拝所 鳥居

積川神社の氏地は牛滝川に沿い、遠方の氏子が参拝できるよう遥拝所が設置。 岸和田浜に御旅所が設置、岸和田城下の建設に伴い、遷座。 積川神社の祭神は生井神、栄井神、綱長井神、阿須波神、波比岐神。 総称して座摩神とも。 崇神天皇の御代に創立。 白河上皇は熊野御幸の時、当地を参拝、舞楽を楽しんだ。 1160年、後白河上皇による熊野御躰の勧請に際し、積川社は今熊野社領諸国荘園28箇所の一つとして寄進。 和泉五社(和泉国一宮・大鳥大社、二宮・泉穴師神社、三宮・聖神社)、四宮・積川神社、五宮・日根神社)の他の四社とともに都の神祇官に直属、その御年貢進社とされ、和泉国近木荘特産の櫛(和泉櫛・近木櫛)を納めた。

三好実休戦没碑
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三好実休戦没碑

戦国時代、三好氏の家臣として活躍した武将。 1527年、三好元長の次男。 兄に三好長慶、弟に安宅冬康、十河一存、野口冬長ら。 長慶は細川京兆家の当主・細川晴元、実休は晴元の弟で阿波細川家の当主・細川持隆に仕えた。 伊予国・河野氏との合戦に三好勢として参加。 細川晴元と対立する細川氏綱、畠山政国、遊佐長教らに対抗するため、阿波の軍勢を渡海、舎利寺の戦いで大勝。 弟の十河一存は岸和田城主となった。 1553年、細川持隆を見性寺で自害、細川真之を阿波細川家の当主として擁立。 久米義広、佐野丹波らが反抗、実休はこ鑓場の戦いで破り、阿波細川家の実権を掌握、阿讃衆・国人衆を三好政権の統制下に置いた。

久米田公園
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久米田公園

標高約40mの久米田丘陵に位置する。 園内には広場やアスレチックなどがあり、市民の憩いの場として親しまれている。 また、貝吹山古墳、風吹山古墳、無名塚古墳が点在する。 貝吹山古墳や風吹山古墳などからは石棺と銅鏡、銅鏃、鉄製かぶと、腕輪形の石製品、画紋帯神獣鏡、鉄剣、鉄刀、玉類が出土。 貝吹山古墳は前方後円墳で墳丘には埴輪、周濠は一部、山田池、ねんど池、どじょう池になった。 付近の中学校の敷地内には円墳の女郎塚古墳、久米田寺の境内には円墳の光明塚古墳、志阿弥法師塚古墳も。 志阿弥法師は奈良時代の僧。

そぼろ
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