近くに行っても意外と気付かない?京都~秀吉の栄華と衰退@東山~
京都近くに行っても意外と気付かない?京都~秀吉の栄華と衰退@東山~
京都のまちと言えば、平安京!たくさんのお寺!京町屋!など色んなイメージを思い浮かべるのでは? そんなイメージを持つ現在の京都を大きく形づくったけれどもそのことがあまり知られていない人物がいるのです。その名も「豊臣秀吉」!! 豊臣秀吉と言えば大坂のイメージが強いですが、実は京都のまちにも大きな痕跡を残していたのです。 実は八坂神社や清水寺、建仁寺や東福寺など有名寺社が並ぶ観光地の東山にもそんな豊臣家の栄枯盛衰を感じさせる箇所があるのです。 ちょこっとマイナーな秀吉の痕跡を有名観光地が多くある東山を中心に紹介していきます。有名観光地に行くついでに足を運んでみてはいかがでしょうか?
千体以上の千手観音像と正面の柱間が三十三間ある巨大な本堂が有名な言わずと知れた寺院。長寛二(1164)年に後白河上皇によって建立され、観光客が足を運びいつも多くの人でにぎわっている。 そんな三十三間堂にも秀吉の痕跡がある。秀吉が天正十二(1586)年に方広寺という寺院をお堂の北側に建立したのである。その際三十三間堂は方広寺の一部(千手堂)となっていたのである。現在もその時の名残が境内南側の南大門と太閤塀として現在も残っている。がここまで足を運んでいる観光客はめったにいないでは?
南大門
三十三間堂の東側の道を南に進むと正面に大きな門が見えていくる。これが南大門である。慶長5(1600)年に豊臣秀頼によって築造されたとされる。方広寺の南側の門として築造された。 派手さはないが重厚さや大きさは当時の豊臣家の力や方広寺の広大さを感じさせる。
太閤塀
豊臣秀吉によって築造された方広寺境内の南限に築造されたとされる塀。瓦には秀吉の家紋である桐の御紋があしらわれている。南大門と共に重要文化財に指定されている。 大きな南大門と並んでいても引けをとらない大きく重厚な塀である。
妙法院
永暦元(1160)年に開創されたとされる。現在三十三間堂は妙法院が管理している。 方広寺が建立された際には当寺を経堂としていた。煙りぬきがある特徴的な屋根のある庫裏は秀吉が方広寺大仏殿で供養を行うときのご飯を作るための建物であったと伝わっている。 普段は中に入れないが、一年に二回ほど特別公開をしている。内部の木組みは迫力があり、公開されている際にはぜひ見ていただきたい。
かつては豊臣秀吉が建立した大仏殿がそびえたっていた壮大な寺院であった。奈良、鎌倉に並ぶ巨大な大仏で、大仏殿は江戸時代の絵図にも度々描かれるほどであった。当時は三十三間堂や妙法院も含まれる広大な境内であったが、現在方広寺は豊国神社の隣にひっそりとたたづんでいる。当時の面影を見る事が出来るのは大きな梵鐘と石垣だけである。
梵鐘
豊臣氏滅亡の大坂の陣の口実を与えたことで有名な梵鐘。。巨大な鐘で「国家安康」の文章は鐘の外側に、内側には人の顔が見え、淀殿の怨霊ではないかという話もあったりする。
大仏殿石垣
七条通りから大和大路通りに入ると右手に巨大な石を組んだ堂々たる石垣が姿を表す。方広寺から京都国立博物館まで続くこの石垣は方広寺大仏殿のものであった。 京の住宅街に突如現れる迫力ある石垣は京都のイメージとは異なる不思議な空間を作り上げている。
耳塚
方広寺の西側にある。秀吉の朝鮮出兵により、戦果として持ち帰った敵兵の耳を埋め供養したものとされる。 住宅街の中に現れる耳塚は考えているものより大きく存在感があるはずだが、気付いていない人も多い?
豊臣秀吉を祭神とする神社。慶長三(1598)年に秀吉の遺体を阿弥陀ヶ峰に葬り、翌年に壮大な社殿を建立したが始まり。 豊臣家滅亡後は徳川幕府により取り壊されるなどして荒廃してしまっていた。明治元年にようやく再興し、同十三年に方広寺大仏殿の跡地に移転した。唐門を始め秀吉関係の宝物を所蔵しており、秀吉に触れることができる。
唐門
秀吉が築城した伏見城の遺構と伝わる。桃山時代を彷彿とさせる豪華絢爛で壮大な門で京都三大唐門の一つ。
豊国廟
東大路七条から東に行くと京都女子大学へと続く通称「女坂」がある。その突き当りにあるのが豊臣秀吉のお墓である。急な坂と階段を登った先にあるので要注意。 途中の広場には桜が植わり、桜の季節には地元の住民がお花見をしていたりする。
文禄三(1594)年に淀殿が父浅井長政を弔うために建立。一度焼失するも、淀殿の妹崇源院(お江)が再建した。その際に秀吉が築城した伏見城の遺構を移築した。伏見城の自刃した血の跡が残る血天井や俵谷宗達の障壁画が今に伝わる。血天井の血の跡分かりにくい部分もあるが、戦のなまなましさを感じる事が出来る。
永暦元(1160)年、後白河法皇が法住寺殿の鎮守として近江の日吉社から勧請して建立した。 豊臣氏滅亡後荒廃していた豊国神社を境内で樹下社としてひっそりと祀っていたとされる。明治になり豊国神社は新日吉神宮に再興された。 狛犬の代わりに狛猿がいるのも特徴的!