箱根東坂(小田原宿→畑宿→芦ノ湖→箱根宿) 18㎞を歩く
神奈川箱根東坂(小田原宿→畑宿→芦ノ湖→箱根宿) 18㎞を歩く
シェルパ斎藤さんの つぶやきより <信州大学の学長が入学式で新入生に語ったあいさつが、胸に残っている。 子供の頃は時間がゆっくりと流れるのに、大人になると時間は走馬灯のように速く過ぎ去っていく。どうしてなんだろう? 学長は脳科学者の言葉を引用して説明した。 「記憶が詳細なほど、その瞬間は長く感じられる。しかし周りの世界が見慣れたものになってくると、脳が取り込む情報は少なくて済み、時間が速く過ぎ去っていきように感じられる」と。 だから大人は自分の時間を有効に使うために、自力で時の流れを遅くする必要がある。そのために5つの方策が提案されている。 1、学び続けること。新しい経験が得られて、時間感覚がゆっくりとなる。 2、新しい場所を訪ねる。定期的に新しい環境に脳をさらす。 3、新しい人に会う。他人とのコミュニケーションは脳を刺激する。 4、新しいことを始める。新しい活動への挑戦。 5、感動を多くする。 時間の流れを遅くするために、僕は好奇心にまかせてひとり旅を延々と続けているのだ、 といまなら主張できる。 1日はたった24時間しかないのだ。「自分の脚」で歩く旅!!>
小田原城を右手に見ながら、緩やかな上り坂国道1号風祭方面へ、三枚橋で早川を渡ると箱根東坂の始まりになります。 箱根東坂には石畳の道が多く残されています。箱根旧街道石畳もその一つです。 鎖雲寺を過ぎると、往時急坂であった女転ばし坂があります。ここを過ぎると、寄木細工で有名な畑宿へ入ります。 畑宿本陣跡や畑宿一里塚があります。 東海道で一番の難所であった樫木坂、見晴らしの良い樫の木平、そして見晴らし茶屋となります。 箱根旧街道資料館を過ぎると、甘酒茶屋があります。ここは、これから関所を越える旅人や、越えた旅人が立ち寄った茶屋です。ここから芦ノ湖を目指し進みます。
国道1号線に沿って歩く
小田原駅から国道1号線に沿って、右にはいつもなら乗車している登山電車が行き過ぎる、走行する電車を見るのもまた楽し!
早川にかかる三枚橋
箱根越えは時代によってコースが違い古い順から、・碓氷道(上古道) ・足柄道(中古道) ・湯坂道(近古道)・旧東海道(近世道)・新道(国道1号線)・箱根新道 とあり、三枚橋は旧東海道の橋で1号線と別れこの橋を渡る。なお三枚橋の由来は、3枚の板で橋が出来ていたことかから名づけられているとのこと。ここから箱根峠の上り坂までを箱根東坂、箱根峠から三島宿に至る下り坂を箱根西坂と呼ばれている。
長ーくだらだら続く、登り坂
三枚橋を渡り、早雲寺を右に見て 「観音坂」「葛原坂」、須雲川村を過ぎて、鎖雲寺を左に見て、ヘアピンカーブの「女転ばし坂」「割石坂」、「大沢坂」から石畳の道へ。 注:「須雲とは?傾斜の急な谷を意味する」
女転ばし坂
旅の女が落馬して死亡した坂、きつーいヘアピンカーブと行き交う車に注意!!
割石坂
登り一町余、江戸時代の石畳を残す 曽我兄弟が仇討ちに向かう途中、路傍の大石を試し切りした場所とも謂われています。
間の宿:畑宿へ石畳を進む
江戸時代へタイムスリップ、自然を身体で受け止めて石畳を歩けば、坂本龍馬の声が聞こえるかも、彼もこの道を何度も辿った。
石畳の道へ
東海道は、ほとんど大部分が舗装された道路になってしまい、昔の街道の面影を探すことは難しくなっていますが、箱根などごく一部に残された石畳道を歩いていると、江戸時代にここをわらじや馬で旅した人達の気分になれます
現在残っている石畳の多くは、1863年(文久3年)に和宮内親王が14代将軍徳川家茂のもとへ降嫁されるにあたり、幕府が代官に命じて改修させたものといわれている
箱根旧街道は江戸防衛のため、意識的にどろどろで膝までぬかって歩きにくく設計されているところもある。 街道はたびたび改良が行われ初めは箱根笹を横に敷いたりしたが、後に石畳として完成とした。ただがこの場合でも石を不規則に敷いて歩き難くするなど防衛上の配慮をしている。
間の宿:畑宿
寄木細工「浜松屋」から少し登ったバス停留所のあたりが広場になっており、トイレもある。注:「間の宿?宿場間が長いので、間に設けられた休憩をメインとした宿場」
畑宿一里塚案内
畑宿の少し先に、箱根一里塚の案内があり、側には「とろろ蕎麦」で有名な「桔梗屋」。
畑宿一里塚、日本橋より23里目
平成10年に復元された江戸日本橋から23番目の箱根一里塚。この一里塚は石畳の両側に残る塚で旧東海道中で唯一その形態を留めるものとなっている。山の斜面にあるこの塚は、周囲を盛土、切土と石貼で平坦面をつくり直径9m円形に石積を築き、礫を積み上げ、表層に土を盛って頂上に植樹したものと発掘調査で判明している。
西海子坂(さいかちさか)へ
登り二町余、踏み外すと千尋の谷落ちるとも謂われた坂
七曲
箱根難所、ヘアピンカーブの連続 車でもかなりの急な坂 現在は階段にになっているが、今も昔も「どんぐりほどの涙こぼす」かも。
橿木坂(かしのきさか)
昔は坂道、今は階段になっているが 階段の辛さを、身体で痛いほど味わえる階段がここからスタート!!
どんぐりの涙
余りの険しさに「どんぐりほどの涙をこぼす」ところから名づけられた。 「東海道名所日記」に、けわしきこと道中一番なり「樫の木の、坂をこゆれば、くるしくて、どんぐりほどの 涙こぼる」と書いてある。(案内板抄訳)
いつまで続くどんぐり坂は!
涙もこぼれ、腿はパンパン!! 息も上がる。日ごろの節制と自主トレが試されます。さて、貴方は?
猿すべり坂
橿木坂の階段を登ると、国道へ 猿滑坂碑あり、登り1町余。 猿滑坂は「新選相模国風土記稿」で「殊に危険、猿猴といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と坂の名の由来が書かれある。(案内板抄訳)
国道渡ると、また、階段
これが最後の階段! 最後の力を振り絞って、間もなく現れる峠茶屋「甘酒茶屋」はすぐそこ
追込坂(ふっこみざか)
登り二町余、甘酒茶屋手前のゆるやかな坂
甘酒茶屋
甘酒茶屋には、赤穂浪士神埼与五郎が討ち入りに急ぐ途中、ここの馬子にいいがかりをつけられたが、大事の前ということで馬子に詫び証文を書いたという逸話が残されている。(事実は同じ浪士の大高源吾とのこと) また茶屋を当時小田原へ入る諸大名が、ここで一服する場所として利用したので大変繁盛したという。
暫しの休息、一休み
橿木坂、猿すべり坂を登り終えた身体には、笈ノ平(おいのたいら)にある甘酒茶屋で至福のひと時!! 注:「笈の平?関東地方の布教に二十余年をかけた親鸞聖人が京に戻る途中、ここで笈下ろして休み、弟子たちと別れた。 笈:行脚僧や修験者などが仏像,仏具,経巻,衣類などを入れて背負う道具。
【甘酒400円、力餅500円】
名物の【甘酒】はほんのりと暖かく、なんとも優しい甘さのする甘酒でした。 塩辛いふきの漬物と交互に飲むとさらに甘さが引き立ちます。 【力餅】は、うぐいす、くろごま黄粉、いそべ、弾力のあるお餅でくろごまがよく合う。 かつて徒歩で街道を往く人々にとって、歩き疲れた身体に、この甘酒がどれほど美味しく感じられたのであろうか?
甘酒茶屋をでて・・・・
甘酒茶屋をでて旧道、山道を辿る 再び、自然の中に身を委ねよう! 芦ノ湖に向けて!
於玉坂
もう少し進んだところに、「お玉ケ池」という池が。関所破りをした玉という娘が処刑されたのが、その池の近くだったとのこと。この坂名は、それと関連があるようです。
箱根旧街道標識
元箱根まで、あと40分の標識が! 最後の登り坂「白水坂」「天ケ石坂」を越えれば、芦ノ湖向けて やっと下り坂!!
白水坂
登り十二間余
白水坂の石畳
白水坂には文久三年(1863)に敷設された石畳が残っている。皇女和宮が徳川家茂に降嫁する際に改修、白き水が流れていたと謂う。
天ケ石坂(てんがいしざか)
登り7間余
天ケ石坂
箱根で一番長い約1kmにわたる、天ケ石坂の急な上り坂となり、登りきると平坦なデコボコの石畳
箱根馬子唄の碑
「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」 箱根で一番長い約1kmにわたる天ケ石坂の石畳に入る。この道の途中に、馬子唄の碑がある。馬子唄は、馬喰[ばくろう]とよばれる馬の売買人や馬に荷を乗せて運んだ馬子が、峠を越えるときに唄ったものだ
権現坂
芦ノ湖へ向かう下り坂
最高の感動を味わえます!権現坂から芦ノ湖を・・・
おおッー!!今までの疲れが、一気に吹っ飛ぶ!! 歩かなければ味わえない感動、芦ノ湖が水面が目に飛び込んできた時の感動を味わってください!!
権現坂、史跡旧街道碑
権現坂の石畳を下れば、芦ノ湖はすぐそこ。
芦ノ湖
湖面海抜725m、周囲17.5㎞。芦ノ湖奥に小さく見える赤い鳥居は芦ノ湖の守り神・九頭竜神社のもの。芦ノ湖は四千年前の箱根火山爆発で誕生。
箱根杉並木
また約420本の大木の並ぶ旧街道杉並木。樹齢350年以上、高さ38m、直径5.5mに及ぶものもあると謂う
箱根関所跡
「入り鉄砲に出女」を取り締まる関所、箱根の関所は1616年(元和2年)に、大阪夏の陣の浪人が江戸へ潜入することを防止するために箱根権現の一の鳥居あたりに設置された。その後箱根宿開設とともにこの地に移された。
疲れた身体を!箱根芦ノ湖温泉 和心亭 豊月 で癒す
疲れた身体にご褒美!!箱根芦ノ湖温泉でゆったりのひと時を! 箱根神社から徒歩1分、全15室、貸切風呂あり、箱根芦ノ湖を一望できる高級旅館「和 心亭豊月」でゆったりしたひと時を!
露天風呂「出合い月~灯~」
和の趣きの露天風呂を気のすむまで味わえる贅沢なひととき! 雄大な時の流れを静かに語る岩の面々に身体を預けると、ごつごつとした岩肌が寡黙に語りかけます。自然そのものの癒しを肌で感じてください。月で長く愛されてきた檜露天風呂「出合い月」で 心身ともにリフレッシュ!!
天守閣は、城の象徴として本丸に構えられたものです。 古文書によると寛永11年(1634)に、三代将軍徳川家光が小田原城の天守閣に登り、武具を見たり展望を楽しんだという記録が残っています。 元禄16年(1703)の大地震のときには、小田原城のほとんどの建物が倒壊・焼失してしまいますが、天守閣は宝永3年(1706)に再建され、明治3年(1870)の廃城まで小田原のシンボルとしてそびえていました。
小田原城ライトアップ!
小田原城東堀にある花菖蒲園では、6月になるとあじさいを背景に花菖蒲が花開きます。小田原城もライトアップ!
小田原城あじさい花菖蒲まつり【平成27年6月6日(土)~21日(日)開催】
6月になると花菖蒲ライトアップ 開花に合わせて開催される「小田原城あじさい花菖蒲まつり」では、出店のほか、 夜にはライトアップの演出により昼間とは違った幻想的な花々をご観賞いただけます。
第24回小田原ちょうちん夏まつり【平成27年7月25日(土)~26日(日)】
小田原ちょうちん夏まつりは、歴史に名を残す「小田原ちょうちん」をシンボルとした市民総ぐるみの夏の一大イベントです。 今年も小田原城址公園二の丸広場とその周辺で開催します。 お堀では地元小学生が作った約2,300個の小田原ちょうちんに、明かりが灯され、水面に幽美な光が映し出されます。
今年は、北條早雲が明応四年(1495年)に大森藤頼(ふじより)を遂(お)って小田原城に入ってから、ちょうど五百年になる。 [注:この記事は平成7年度に広報おだわら紙上に連載] この、早雲に始まる北條氏を、鎌倉時代の執権北條氏と区別して、後北條氏といっているが、後北條氏五代およそ百年間、小田原は関東の政治・経済の中心だったのである。さて、五代百年にわたる繋栄の基礎を築いたのはいうまでもなく初代の早雲であるが、一代でのしあがったということもあって、その前半生については謎の部分が多い。まず出自(しゅつじ)、つまり、どのような家系で、どこで生まれたのかについても諸説ある状態なのである。
◎小田原北条五代の墓
北条五代とは、早雲、氏綱、氏康、氏政、氏直のこと。 1672年(寛文12年)、韮山城主だった北条氏規の子孫で狭山藩北条家五代当主の氏治が北条早雲の命日である8月15日に建立したもの。
◎山上宗二追善碑
山上宗二は千利休の高弟。 小田原北条氏の庇護を受け小田原に滞在。 1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、師に再会するため本陣だった早雲寺を訪れたが、秀吉の逆鱗にふれ斬殺されたという。