ものの始まりなんでも堺。堺はホンマに、ええとこやさかい。
大阪ものの始まりなんでも堺。堺はホンマに、ええとこやさかい。
まいど! ものの始まりなんでも堺。 日本のものづくりにおける製造業の歴史は、堺から始まったと言っても過言ではあらへんほど、様々なものを生み出してきた。 例えば、現在でも国産自転車製造のシェアは約4割を占め、市内には工場が点在、博物館まで存在する。 かつて、中国やポルトガル、スペインなど海外との貿易(日明貿易・南蛮貿易)が盛んで、海外の文化をいち早く取り入れてきた。 戦国時代、線香、傘、鉄砲など「ものづくり」としての礎を築き、その時に訪れた宣教師ザビエルらは堺の隆盛ぶりに驚き、「東洋のベニス」と絶賛。 また、堺は日本の工場として発展してきただけでなく、「君死にたまふことなかれ」で知られる与謝野晶子、豊臣秀吉に仕えた千利休、千利休の師匠にあたる武野紹鴎らを輩出、今でも先人たちの偉業は語り継がれている。 さらに、日本最大の前方後円墳として知られる大仙陵古墳はエジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界三大墳墓の一つに数えられ、周辺の羽曳野市、藤井寺市を含めた地域に点在する百舌鳥・古市古墳群はユネスコの世界遺産登録に向けて動き出した。 大阪・堺はホンマええとこやさかい。
1543年、ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が伝来した。 堺の商人・橘屋又三郎氏が火縄銃製作の技術を学んだ。 以来、堺は鉄砲づくりの町として発展した。 戦国時代、最盛期には、年間1万挺以上を製造していたと言う。 その一部を担っていた井上関右衛門氏の屋敷。 内部(一般非公開)には、火縄銃や懐銃、大筒や大ふいご、御用札などが保存されていると言う。
市内最大の木造建築で「北の御坊」とも呼ばれるようになった。 1871年、廃藩置県後、10年間、堺県庁として使用された。 明治維新当初、堺県は旧天領地だけであったが、河内県、丹南4県、奈良県などを合併。 1881年、近畿でも有数の広大な県域を有していたが、政府の大阪府域拡大の方針で府に併合し、堺県を廃止した。 境内地と建物は浄土真宗本願寺派へ返還され現在に至る。
1615年、大坂夏の陣が勃発し、徳川家康が滞在した。 庭園平庭林泉回遊式枯山水庭園は、市指定名勝。 1579年、織田信長は、蘇鉄を安土城に移植させた。 ある日、夜更けの安土城で庭先で妙な声を聞き、信長は森成利に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう」と呟いたとか。 信長は怒り、家来が斧で蘇鉄を切りつけたところ、血を吐いて倒れた。 祟りを恐れた信長は妙國寺に返還したが、枯れかけた。 日珖は鉄屑を根元に埋めさせたところ、見事に蘇った。 寺では御堂を建て、守護神宇賀徳正竜神として祀っている。 爾来、これを信じる善男善女たちが安産を念じ、折れた針や鉄屑をこの蘇鉄の根元に埋める姿が絶えないとか。
別名、ザビエル公園。 カトリック教会の宣教師として来日したフランシスコ・ザビエル氏。 ヨーロッパとの貿易が盛んであった堺の地に立ち寄った。 その際、堺の豪商として知られる日比屋了慶が邸宅の一部をザビエルに提供したことが由来。
旭橋跡
またこの場所を内川が流れていた。 その川に旭橋が架かっていた。 この付近はアサヒビールの創業者・鳥井駒吉の生家があった。 自らの酒造業者としての原点を忘れないという思いを込めて「旭麦酒」とした。
堺鉄砲之碑
堺の地が、国内における鉄砲の製造拠点であった。 室町時代、堺商人における商工業の町として栄えた。 堺は、織物をはじめ、包丁などの刃物の生産が盛んであった。 種子島に鉄砲が伝来した頃、堺商人のうち、豪商の多くは、高度な金属製品製造技術を持っていた。
東と西の接点
ヨーロッパの西部に位置するポルトガルと、アジアの東部に位置する日本との初出合いを象徴するジョルジ・ウェエイラの作品である。 1970年に開催した日本万国博覧会の際、ポルトガル館が出展。 今後も両国の友好を築くため、ポルトガルにより、寄贈された。
住吉祭礼図屏風
2017年、住吉祭の際、大阪府大阪市住吉区に鎮座する住吉大社の神輿が堺市堺区に鎮座する宿院頓宮へ渡る様子を描いた江戸時代の作品「住吉祭礼図屏風」として知られ、公園内にはその複製が設置。 元々、「夏越祓」として6月晦日に行われていたが、8月1日に行なわれている。 左隻は神輿の出発する住吉社頭の賑わいを描き、神輿行列が太鼓橋を渡って堺へ向かう様子。
住吉祭礼図屏風
「住吉祭礼図屏風」の右隻は町人らが仮装などをした風流行列が堺の浜通から頓宮へと向かう様子や頓宮では神事相撲の模様が描かれている。
聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅
来日したフランシスコ・ザビエル氏は堺を訪問。 その時に対応した豪商・日比屋了慶の屋敷跡が整備され、1949年に公園として開園。 1949年、ザビエルの来航400年記念の年にあたり、園内に「聖フランシスコ・ザヴィエル芳躅」碑が建立。
海に開かれた中世堺
中世の堺は対明貿易や南蛮貿易など海外との交易拠点として発展してきた。 都市の三方に濠を巡らし、西側は海に開かれた環濠都市を形成し、自治都市として繁栄した。 公園付近にはフランシスコ・ザビエルを自宅に招いて不況を助けた富豪・日比屋了慶の屋敷があったと言われている。 旧堺港をはじめとする現在の海岸線は、近世以降の埋め立てによるものであり、中世の海岸線は発掘調査により、当公園内に位置していたとか。
こんぺいとう工房、カルメラ工房、シュガーアート工房がある。 塩味のコンペイトウや珈琲コンペイ、ポルトガル産のルビーポートワインを使用したワインなどが販売されているという。
寺子屋「清光堂(清学院)」「錦西小学校」に入学。 土屋弘(鳳洲)主宰の晩晴書院に通学し、漢字を習得。 堺で布教活動を行っていた米国出身の宣教師コルビー女史から英語とキリスト教を習得。 上京し、哲学館(現在の東洋大学)に入学。 チベット語一切経やインドのサンスクリット語仏典の探求のため、鎖国状態であったチベットへと旅立つ。 ネパール、ヒマラヤの峠を越えて、チベット西部に入り、日本人では初めてとなるラサに到着、チベットの風習など、国民性を学んだ。 帰国後、旅行談を新聞に連載。「西蔵(チベット)旅行記」として刊行。 再び旅立ち、インド、ネパール、チベットで過ごす。
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ここでは、七道駅周辺の観光案内やゆかりの人物の一人、河口慧海氏の紹介などが記載されている。 堺は古くから、刃物、鉄砲、自転車部品、線香などのものづくりの街として知られ、七道駅界隈もその一部を担ってきた。 鉄砲の製造を専門とする旧鉄砲鍛冶屋敷が多く存在し、現在も一部が民家として残っている。 また、当時、鎖国状態となっていたチベット、ラサに日本人として初めて到達し、旅行記を刊行した河口慧海氏の紹介とゆかりの地が刻まれている。 七道駅前西側のロータリー中心部には、河口慧海氏の銅像が建立されている。
放鳥銃定限記
1914年、運河掘削工事の現場から「放鳥銃定限記」と題する石碑を発見し、柳原吉兵衛氏が建立した。 1664年、鉄砲師範の小濱民部丞嘉隆氏の遺徳を称えて、砲術家川名金衛門忠重氏によって作られた。 石碑には、「小濱民部丞嘉隆氏は文武両道の達人であり、堺の海辺に鉄砲の試射場を設け砲術の訓練と研究を重ねた」など 377文字の漢文が刻まれていたと言う。 江戸時代、この付近に試射場があったとされている。
鉄砲鍛冶射的場跡
1543年、種子島に鉄砲が伝来。 ポルトガル人のフランシスコ・ゼイモト氏の指導の下、種子島時堯氏が使用方法を習得。 橘屋又三郎氏、芝辻清右衛門氏らが製銃法を習得し、堺で広まった。 江戸時代、全国諸大名に鉄砲を供給した。 小浜民部丞嘉隆氏は練達し、堺の七道浜に鉄砲射的及び兵廠を設けて、子弟に砲術を指南した。 七道駅界隈にはかつて、小丘があり、鉄砲塚と呼んでいた。 現在の地名、鉄砲町はこれらが由来。
1908年、大阪府堺市で化学品メーカーの前身にあたる堺セルロイドが三井財閥の出資により創業。 1919年、大阪府堺市で三菱財閥・鈴木商店系、岩井産業系など8社の合同により、大日本セルロイド株式會社(現在のダイセル)が設立。 2008年、工場は閉鎖。 2016年、跡地にイオンモール堺鉄砲町がオープン。 イオンモール堺鉄砲町では、グルメ、ファッション、雑貨など約160店の専門店とイオンスタイル堺鉄砲町が集結。 イオンスタイル堺鉄砲町では、堺市が刃物の製造が盛んであることから、包丁(刃物)の売り場面積を最大級とし、泉州タオルなどの地域色のある品揃えを充実させたことが特徴。
歴史的建造物の「堺鉄砲町赤煉瓦建築」を再利用。
赤煉瓦建築は閉鎖された堺セルロイド会社(ダイセルの前身)の事務棟として利用されていた。 設計は工場建築の茂庄五郎氏が担当し、米国人技師の基本設計を基にしたとか。
イオンモール堺鉄砲町の3階に向かうとフードコート。 久々にラーメンが食べたくなり、「麺匠まるたけラーメン」を選んだ。 長い行列の中、餃子や唐揚げ、ミニ丼などが定食になったAセット、Bセット、Cセットがあり、ミニ丼(豚丼・本日の丼など)とラーメン(あさり、とんこつ塩、とんこつ醤油、チャーシュー麺など)を選ぶ。 お昼時なので、長い列に並んで待ちながら、メニューを選んで、950円。 (餃子は、少々、時間がかかりますとの説明書きも)。 今回は、とんこつ醤油ラーメンと豚丼。 本格的なスープは濃厚で美味しく、ほぼ飲み干したほど。 チャーシューは、九州きなこ豚を使用したといい、話題を呼んでいる。
江戸時代、寺子屋「清光堂」を設置。 1871年、後に日本人として初めてチベットへの入国を果たすこととなる河口慧海も在籍。 寺子屋では、「読み書き算盤」の習得や、地理・人名・書簡作成・歴史・古典など実生活に必要な知識・教養や技能の教育を行っていた。 現在、天神机、小型の硯、教科書などの寺子屋関係資料が残っている。
江戸時代、堺は鉄砲、刃物、朱などの製造業が盛んで、米、油などの商取引が活発であった。 宣教師・ザビエル氏が来日し、堺を来訪の際、堺の豊かな暮らしを見て、驚くほどに発展していたという。 その富は、育成にも注がれ、堺では無料で子供たちに教育を受けさせる「稽古場」や22の寺子屋を運営した。 これら市民の旺盛な教育活動を受けて、堺奉行所は町屋を買い取り「郷学所」を設置したが、この地に移転。 移転後、幕府の援助により、市民の上級教育機関として、活躍した。
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祭神は、保食命、猿田彦命、大宮姫命、大物主命。 1543年、ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が伝来した。 堺の商人・橘屋又三郎氏が火縄銃製作の技術を学びんだ。 以来、多くの鉄砲が製造されるようになり、紀州根来に伝わった技術を堺の芝辻清右衛門氏が学び、日本で初めて鉄製大筒を製造した。 このとき、稲荷神社を勧請。 現在は、高須の稲荷として信仰を集めている。
1615年、大坂夏の陣により、堺の町も激戦地となった。 徳川家康氏は、戦国時代の終結と天下平定を宣言し、長谷川藤広氏を堺奉行に任命し堺の町割り(都市計画)を命じた。 長谷川藤広氏は病弱であったため、代わりに風間六右衛門氏が担当。 豊臣秀吉氏が埋めた周濠の土井川を掘り起し、散在していた寺院を、 紀州街道沿いには商工業者を集め、長崎に匹敵する国際貿易港を目指した。 風間堂という小堂を建立。 町割りは、風間六右衛門氏の案が採用され、区画整理が行われた。 区画整理には、「丁目」はなく「丁」が採用されている。 1945年、第二次世界大戦「堺大空襲」により、甚大な被害をもたらした。
山口家住宅は、「堺市立町家歴史館 山口家住宅」として公開している。 1615年、主屋は、大坂夏の陣の戦火により市街地が全焼した直後に建てられた。 1775年、西土蔵を建築。 1800年、北土蔵を建築。 内部では、打刃物・線香・和晒・緞通などの伝統産業の紹介をおこなっている。
古代、古墳築造・鉄器製造のため、全国各地から優れた技術を持つ人が集まって始まった堺の歴史。 鉄の加工技術は戦国時代、刃物、鉄砲鍛冶などに受け継がれ、明治時代には自転車の普及とともに発展してきた。 堺の自転車産業は現在、国産自転車の約4割のシェアを占めている他、自転車部品は海外に輸出されてきた。 ここでは、自転車の部品、歴史に関する展示を行っている。
四国阿波出身の三好長輝氏は堺と関係の深い細川氏の先鋒として北国の兵を京都で破った。 細川澄元氏を援助、足利幕府の管領に据え、その後見人として権力の座に就いた。 1504年、三好長輝氏は京都と阿波の中間地点に当たる堺に館の建設を計画。 館が完成する頃には、孫・元長の代に変わり、政所の号を与えられた。 敷地面積は、東西約652m、南北は、これの倍にあたると言われている。 館の中央には、高楼があり、楼上から、常に周辺を監視していた。 元長氏の後継者として、長慶、義興、義継が居住し、本城のような役割を果たしていた。
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ポルトガル人が種子島に漂着し、鉄砲が伝来した。 堺の商人・橘屋又三郎氏が火縄銃製作の技術を学んだ。 以来、多くの鉄砲が製造されるようになり、紀州根来に伝わった技術を堺の芝辻清右衛門が学び、堺での生産の基礎を作った。 榎並屋勘左衛門氏は、幕府御用鉄砲鍛冶として重用され、芝辻理右衛門氏は日本で初めて鉄製大筒を製造した。 大坂冬の陣の際、徳川方から鉄砲の発注を大量に受けた。
700年代、行基により建立。 通称、海船御堂と呼ばれている。 かつて、北旅籠町西に存在した海船の浜付近に位置していたため、海船御堂と呼ばれるようになった。 1431年、大きな敷地に七堂伽藍を備えていたが、南北朝の争乱の時期に焼失した。 1598年、現在地に移転した。
伊予の豪族河野通元氏が覚如上人に帰依し、覚応と名乗り、日向の霧島山麓に一宇を建て覚応坊と名づけた。 堺に移転、覚応寺として改称。 住職の河野鉄南氏は与謝野晶子氏と鉄幹氏の縁を結んだ人として知られている。 境内には与謝野晶子氏の歌碑がある。
1540年、権律師賢盛が「前の坊」として創建した。 1678年、十輪院と改称した。 本尊地蔵菩薩は海船の浜(堺市堺区鉄砲町付近)から感得したもの。 境内に大阪府古文化記念物に指定されている板状塔婆が建っている。
江戸時代、朱及び朱墨などの関連商品を扱う商人による座が存在した。 有毒性の一つ「朱」は、顔料や薬品などに用いられてきた。 織田信長は、朱の販売を認めていたが、豊臣秀吉によって否定。 1609年、朱は、中国などからの輸入に頼っていたため、国内市場は衰退。 徳川家康は、衰退した朱座の再建を認め、小田助四郎・甚太夫に堺と江戸に朱座を設置させた。
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京都で堺の商人・小西隆佐氏の次男として生まれた。 小西行長は、武将として知られ、高山右近との交流を深めたキリシタン大名。 織田信長・羽柴秀吉と共に三木城攻めを行い、水軍を率いた。 九州征伐、肥後国人一揆に成功し、肥後で宇土城を築城、本拠とした。 天草五人衆と戦になり、加藤清正らと共に平定するも、確執を深めた。 豊臣秀吉と共に朝鮮軍を破り、釜山・平壌を攻略。 戦意を喪失した中国と兵糧不足に悩む日本との間に講和交渉が開始し、石田三成と共に携わるも破綻。 朝鮮へ進攻、水陸からの攻撃が開始されたが、撃退。 帰国後、関ヶ原の戦いに参戦したが、石田三成、安国寺恵瓊と共に斬首された。