京の魅力 東山パワースポット巡りby京都未来まちづくり100人委員会
京都京の魅力 東山パワースポット巡りby京都未来まちづくり100人委員会
各寺院には深い、歴史、謂れが有ります。 時期により、隠れた魅力ある行事が有ります。 紅葉、さくらのシーズン以外にも訪ねて下さい。
日本で唯一「御寺」と呼ばれる皇室の菩提寺である。仏殿には運慶作の三尊仏が本尊として奉られており、天井には狩野探幽作の龍の図が描かれている。境内の一角には楊貴妃観音が奉られ、美人祈願、良縁成就を願う女性。
泉涌寺紅葉 見頃 12月初旬ごろまで
皇室とゆかりが深く、御寺[みてら]とも呼ばれる古刹で、弘法大師が草庵を結んだのが始まり。境内には狩野探幽作の天井絵などが見られる仏殿(重要文化財)がある。大門近くの観音堂には、唐の玄宗皇帝[げんそうこうてい]が楊貴妃の冥福を祈り造らせたという楊貴妃観音坐像(重要文化財)がまつられ、美人祈願や良縁に御利益があるという。紅葉は、京都市内では比較的早くに色付き、色の鮮やかさに定評がある。
美人祈願の参拝者が絶えない 楊貴妃(ようきひ)観音堂
大門を入って左手奥の堂内、六羅漢像の中央に安置される聖観音像(重文) 像容の美しさから、玄宗皇帝が亡き楊貴妃の冥福を祈って造顕された像との伝承を生み、楊貴妃観音と呼ばれて来た。 像は、たいへん穏やかで美しいお顔で、日本一美しい観音像とも言われている 観音堂は「楊貴妃のような美しい女性になれますように」と、美人祈願のご利益を授かりに訪れる女性参拝者があとを絶ちません。
仏殿
当初の伽藍は応仁の乱でほとんど焼失し、現在の諸建造物はそれ以降建立のものである。 大門から参道を下って正面の 仏殿は、寛文8年(1668)徳川四代将軍家綱によって再建され、現在伽藍の多くはこの時整備されている。 仏殿は一重もこし付入母屋造り本瓦葺き、唐様建築の代表作で、国の重要文化財である。
御座所庭園
御座所の東南から御殿の南側にかけて、小さな御庭が築かれている。霊明殿・御座所・海会堂そして御陵拝所に取囲まれた御庭は、小さいながらも無比の環境の中に自然と人工の巧の業を織りまぜている。低い築山の裾に曲折する池の汀、ひかえめに咲くさつき、真紅の紅葉、薄すらと雪化粧した 雪見灯篭に映える梅もどき等々、 四季折々に楽しませてくれる
御寺泉涌寺の別院 別格本山雲龍院
雲龍院は応安五年(一三七二)後光厳天皇の御建立にして、後、同所に後円融天皇、康応元年(一三八九)龍華殿を御建立せられ、御宸翰を下して妙法写経を始められる。両帝は屡々行幸になり開山竹厳聖皐上人に聞法受戒せらる。晏駕に先立ちて剃髪染衣せられ、上人の引導を受けて背後の山に埋葬し奉ったのである。 庭園の紅葉が美しい。
新春恒例七福神巡り(無料公開)
毎年、成人の日に行われる 巡り方は、まず、即成院で福笹(無料)を受け取り、飾りは有料福禄寿(即成院)、弁財天(戒光寺)、恵比寿神(今熊野観音寺)、布袋尊(来迎院)、大黒天(雲龍院)、毘沙門天(悲田院)、寿老人(法音院)、番外として愛染明王(新善光寺)、楊貴妃観音(泉涌寺本坊楊貴妃観音堂)を含め、九福神として巡ります。中国では”九”は最大の吉数で、”久しく”福が続くよう「久福神巡り」とも書きます。
この地には、後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。 上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であった。 「三十三間堂」の名称は、「三十三間四面」に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。 1月成人の日 、3月3日は 無料開放
大的大会(おおまと) 1月成人の日
江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。「楊枝のお加持」大法要と同日に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る。新成人参加者が振袖袴姿で行射する一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とは違うものである。
楊枝のお加持
「楊枝浄水供結願大法要(やなぎのお加持)」を受けると頭痛が治るご利益があると言われる。 由来は、頭痛持ちの後白河上皇が、薬師如来のお告げにより、平清盛に命じ、熊野川にある巨木の楊(やなぎ)を棟木(むなぎ)に用い、法住寺殿内に三十三間堂を建立させたところ、その頭痛がピタリと治ったことに始まっている。新年に七日間の祈りが込められた法水を、鎮痛成分を持つやなぎの枝木で参拝者に注ぐお加持が行われている。
法住寺 【ほうじゅうじ京都市東山区法住寺三十三間堂廻り町655】
「法住寺殿」をしのぶ「法住寺」 木曾義仲に襲われた後は六条西洞院御所に住んでいた後白河法皇だが、66歳で崩御すると法住寺殿内の法華堂に葬られた。明治時代まで法住寺は法華堂を守ってきたが、明治維新以降は、後白河天皇陵は宮内省の所管に移った。 後白河法皇の寺にもかかわらず、内部には法皇の遺体や像もない状態が続いた。崩御800年後に作られたのが、法華堂にあるのと同じ大きさ、形の法皇像。
みがわりさん
本尊の「身代不動明王」が祀られており、あらゆる災厄から身代わりとなって護ってくれるといわれ、「みがわりさん」と呼ばれ古くから親しまれています。寺内の身代不動明王この不動像は寺伝では円仁(慈覚大師)が造立したといわれ、後白河上皇の信仰も篤かった。義仲の放火のさいに、上皇の身代わりとなったと伝る。 不動明王像は内陣の格子の中に安置されていて、毎月28日だけは格子が上げられた状態で公開される
大石内蔵助祈願の寺
赤穂退去後、大石内蔵助は家族とともに京都山科に隠棲していた。山科に住んでいた際、法住寺に立ち寄り不動明王に討ち入りの成功を祈願したと言われている。 毎年12月14日の討ち入りの日には「義士会法要」が開催され、法要、献茶式の後、舞妓さんのお点前によるお茶会が行われるほか、参拝者に討入りそばの接待もある。「義士会法要」の日のみならず、普段から義士を愛する人々が供養に訪れる。
長谷川町子さんの菩提寺
生前『サザエさん』の作者である長谷川町子さんが訪れ、先代住職とお話をしていた縁で、長谷川町子さんの遺骨は法住寺に安置されている。「静かでいいところ」だと好んだという寺で、今も静かに眠っている。サザエさんやタラちゃん、ワカメちゃんなど、直筆のイラストも飾られている。
親鸞 「そば食い木像」親鸞が28歳で、比叡山で「範宴」という名で修行していた頃
仲間にしられないように毎夜山を下って烏丸六角にある「六角堂」へお参りし、明け方に戻る、百度まいりをしていた。師の慈鎮和尚は、ある夜門下の弟子を呼び集め、一人一人の名前を呼び上げ、そばを振る舞った。範宴も返事し、そばを食べたという。 寺内にいなかった範宴が山に戻り、話を聞いて首をかしげていると、一人が範宴が作った坐像の口にそばがついているのを発見。範宴が彫った木像が、身代わりを務めてくれたのだ。