コウノトリと出会い、お菓子の神様に祈願。そして、カバンラッピングバスに乗車!?
兵庫コウノトリと出会い、お菓子の神様に祈願。そして、カバンラッピングバスに乗車!?
まいどまいど! 国の天然記念物コウノトリのふるさと兵庫県豊岡市。 ここには絶滅危惧種に指定されたコウノトリの繁殖を目的とした施設がおまして、人工繁殖に成功、ついに野生化に向けて大きな一歩を踏み出し始めました。 豊岡出身のコウノトリが皆さんの町にやってくるのも近い将来かもしれまへん。 そして、一風変わった神社と言えば中嶋神社やおまへんやろか。 中嶋神社の祭神はお菓子との縁が深いとされ、広く信仰を集めてはりますねん。 その他、「まちおこし」にも積極的なのが、カバンストリート。 27の商店が軒を連ね、14店舗でカバンを販売。 2009年、経済産業省・中小企業庁の「新・がんばる商店街77選」に選定されましたんや。 日本でも珍しい「かばんの自動販売機」が設置され、様々な種類の鞄が販売されてまんねん。 ほんで、それだけやおまへん。 全方向に鞄の模様のラッピングが施され、豊岡カバンバスとして市内を走ってはりまっせ。 その他、豊岡の玄関口の一つである豊岡駅や駅前の商業施設など、充実したお出かけプランを皆さんにご案内していきまひょ。 ほな、まいどおおきに!
1999年に開園した兵庫県立の研究施設。 コウノトリの保護繁殖、野生復帰などを行っている。 国の天然記念物に指定されたコウノトリを保護して増殖させ、野生化させることを目的として、兵庫県が整備した施設。 兵庫県立大学自然・環境科学研究所田園生態系の研究員も兼務。 コウノトリの観察や散策にまつわる展示や休憩所、コウノトリグッズを販売している。
祭神は、田道間守命、天湯河棚神。 田道間守命は天日槍命の子孫で、垂仁天皇の命により常世の国から「非時香果(ときじくのかぐのみ)」(菓子の最上級品である橘)を持ち返ったことから、菓子の神・菓祖としての信仰を集めている。 また、現鎮座地に居を構えて当地を開墾し、人々に養蚕を奨励したと伝えられることから、養蚕の神とも。
WILLER TRAINS(京都丹後鉄道)宮津線の停車駅の一つ。 1929年、峰豊線(宮津線の前身)が久美浜駅まで開業。 1990年、宮津線が北近畿タンゴ鉄道宮津線に移管。 2015年、北近畿タンゴ鉄道宮津線がWILLER TRAINSに移管、京都丹後鉄道宮豊線となる。
奈良時代、新羅王子(天日槍命)によって、柳細工の技術が伝えられた。 「柳筥」は正倉院上納。 江戸時代、豊岡藩の独占取扱品として、柳行李の生産が盛んとなった。 1668年、京極伊勢守高盛が丹後国から豊岡に移封され、柳の栽培並びに製造販売に力を注ぎ、土地の産業として奨励したのが始まり。 明治時代、第2回内国勧業博覧会に八木長衛門が行李鞄を創作出品。 第5回内国勧業博覧会に遠藤嘉吉朗の「旅行鞄」が出品。 服部清三郎の「鞄型柳行李」、宇川安蔵のドイツ製品を模倣した「バスケット籠」等の創案が相次いだ。
大正バスケット
大正時代、バスケット型の小型篭の多くは輸出され、革バンドやアテ革など革附属をつくって行李メーカーに販売していた奥田平治が、従来の三本革バンド締めの柳行李にウルシを塗り、錠前を取り付けた「新型鞄」を創案。 これが豊岡鞄の発祥となった。 松本孝のバスケット型柳行李鞄が出現。 信玄袋に代わる「大正バスケット」が大流行。 昭和時代、ベルリンオリンピックの選手団の公式アイテムとして、豊岡の鞄が採用。
カバンストリート
オープン協会豊岡支部を結成し、オープンケースの生産に注力。 工業数約2倍、生産高約8倍に躍進。 「エレガントケース」がヒットし、外注加工先として福井県小浜市、鳥取県日野郡、兵庫県小野市周辺まで拡大。 日本国内における地域ブランド「豊岡鞄」は四大産地の一翼を担う。 平成時代、カバンストリートが発足。 豊岡まちづくり株式会社は、鞄の職人を養成する専門校「トヨオカ カバン アルチザン スクール」を運営。
宵田商店街の愛称。 2005年、豊岡市の地場産業であるカバン産業と商店街が協力して「カバンストリート」が発足。 「地場の産業と商店街の活性化」が目的。 27の商店が軒を連ね、14店舗でカバンを販売。 2009年、経済産業省・中小企業庁の「新・がんばる商店街77選」に選定。
かばんの自動販売機
日本でも珍しい「かばんの自動販売機」が設置。
かばんの自動販売機
様々な種類の鞄が販売されている。
カバン モニュメント
国内において鞄の生産量1位の豊岡市では鞄のモニュメントがカバンストリートに設置されている。 碑文には「今から100年前 宝塚劇場が誕生し、大正ロマンの花が咲きました。豊岡の柳行李産業は大きく輸出額を伸ばし、各国で開催される博覧会でも数多くの賞を得ています。新たな素材”革””ファイバー”が豊岡の鞄産業の新しい扉を開いた時代を感じてみてください。」と刻まれている。
西日本旅客鉄道(JR西日本)の停車駅の一つ。 「きのさき」「こうのとり」など定期旅客列車の停車駅。 1909年、鉄道院の八鹿駅と豊岡駅間の延伸により開業。 1910年、駅舎改築。 1987年、国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。 2006年、コウノトリに因んだメロディーが導入。 到着時、「約束の空へ」(作曲:大西しんぎょう)。 発車時、「輝いて!こうのとり」(作曲:西田武生)。 2011年、新駅舎が完成。
豊岡カバンバス
ラッピングは鞄の製造で有名な豊岡市の象徴。 「鞄ラッピングバス」は全方向にラッピングが施され、元の塗装が完全に隠されているラッピングバス。
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大型複合商業施設。 さとうを核店舗に53の専門店、コミュニティーFMのエフエムたじま(FMジャングル)、生涯教育施設の豊岡市民プラザ、子育て支援センターなどがある。 1997年、創立。 地上7階、地下1階建て。 2004年、生涯教育施設の豊岡市民プラザが開設。 2011年、遊休施設活用により文化支援を推進したことにより一般社団法人地域創造から地域創生大賞(総務大臣賞)を受賞。
地域情報や観光案内を行っている施設とよぶら。 地場産品を販売する店舗。
江戸時代、赤穂藩家老大石良雄の妻。 1669年、但馬国豊岡藩京極家の家老石束毎公の長女として誕生。 香林院 理玖(りく)の母は佐々信濃守休西の娘。 石束家は代々京極家の筆頭家老を勤め、京極家中一番の名門家。 身長は180cmと大柄であったとか。 1687年、播磨国赤穂藩浅野家の筆頭家老の大石良雄と結婚、赤穂城内の大石邸へ移住。 長男松之丞(大石良金)、長女くう、次男吉千代、次女るり。 徳川将軍綱吉から家宣に代わり将軍宣下を行ったことにより、大三郎は安芸国広島藩の浅野本家に仕官。 次女るりも広島藩士で浅野家一族の浅野直道と結婚。
豊岡陣屋は豊岡藩の藩庁。 1668年、京極高盛が移封、豊岡城址の山麓に築かれた。 豊岡城の城主であった杉原氏は関ヶ原の戦いで西軍に与していたが、浅野長政の娘婿であることから、執り成しで旧領安堵されたが、3代藩主重玄の時嗣子なく改易となり、天領となった。
豊岡藩の藩庁
京極氏が入封、4代高寛は没し、弟高永が減封、家名相続が許され、減封に伴い家臣を大幅に除籍、6代藩主高品の代になっても藩内は混乱。