着物と坂道と武家屋敷!杵築で小粋なタイムトリップ!
大分着物と坂道と武家屋敷!杵築で小粋なタイムトリップ!
大分県国東[くにさき]半島の付け根に位置する城下町、杵築[きつき]。 武家屋敷や商家、石畳の坂道が昔ながらの姿をとどめる、今でも時代劇のロケが行われるほど江戸時代の風情が色濃く残る町です。 杵築城から伸びる南北の高台に軒を連ねる武家屋敷群と、その谷間に商人の町を挟む形状「サンドイッチ型城下町」は日本で唯一。 城下町には和服が似合う…ということで杵築は全国で初めて「きつき和服応援宣言」を実施。 平成21(2009)年には、これまた全国初の「きものが似合う歴史的町並み」に認定されました。 このため市内には着物や浴衣のレンタルショップや無料着付けサービスがあります。 さらに和服で散策すると公共観光文化施設の入館料が全館無料。 しかも協賛店では食事代の割引やソフトドリンクサービス、お土産プレゼントなどの特典もあるそう。 杵築には4つのご当地グルメシリーズ(杵築ど~んと丼/きつきサンド/やみつき鱧[はも]グルメ/杵築ひんやりグルメ&スイーツ)があります。 和服姿になってご当地グルメシリーズを堪能してみてはいかがでしょう?
鎌倉幕府から豊後国に封ぜられた木付氏が室町時代初期に築城した中世城郭が始まり。 東側の守江湾に突き出た台地の上に築かれた木付城は八坂川と高山川に挟まれ、天然の要害に囲まれた堅牢な城でした。 時は下り安土桃山時代、木付氏の宗家で豊後国支配者の大友義統が朝鮮出兵で大しくじり。 豊臣秀吉を大激怒させて失脚し、付き従っていた木付氏も一族そろって殉死。 文禄2(1593)年、木付氏の統治が幕を閉じたのでした。 その後は前田玄以らの手により移転や改修を重ね、城主も細川忠興、小笠原忠知と変遷。 正保2(1645)年に能見松平英親[ひでちか]が入封し、明治維新まで続きます。
城山公園
明治4(1871)年の廃藩置県で杵築藩は消滅し、杵築城も姿を消しました。 松平氏の時代、杵築城は不便な高台から北方の平地に移転。 平地の城跡は現在、杵築神社や杵築中学校の敷地になっており、痕跡は神社北側に残る石垣ぐらい。 一方、高台の本丸跡は現在、城山公園として整備されています。
木付城と軍師官兵衛
慶長4年(1599年)、徳川家康の推挙で杵築は細川忠興の所領となりました。 翌5(1600)年、あの関ヶ原の戦いが勃発! 九州の東軍(徳川方)は細川と中津城の黒田官兵衛、肥後熊本城の加藤清正だけ。 しかも復活を期して西軍に付いた大友義統が猛攻撃を展開し、あわや木付城は落城の危機! そこへ駆けつけた黒田の援軍と細川の連合軍が大友軍を撃退し、木付城は徳川方の支配下になりました。
石造物公園
天守閣への坂道を登っていく途中、小さな石塔や石仏が無数に立ち並ぶ場所に出ました。 杵築市内各所で発見された国東塔など貴重な石造物を野外展示している公園です
模擬天守
木付城の天守は慶長13(1608)年に落雷で焼失して以来、再建されることはありませんでした。 それから362年の時を経て本丸の天守台跡に三層の天守閣が甦りました。 昭和45(1970)年10月に再建された鉄筋コンクリ製の模擬天守。 館内は能見松平家の歴史を中心とした資料館になっています。
能見松平家資料館
正保2(1645)年に徳川家譜代の能見松平英親[ひでちか]が封じられ、明治維新まで統治が続きました。 能見松平家は徳川将軍家の譜代大名で、愛知県岡崎市能見町の領主だったのでこう呼ばれているそうです。
法政大学
隣の中津出身の福沢諭吉が慶應義塾大学を創設したのは有名。 ですが同じ東京六大学の法政大学の創設者が杵築藩士だったことは、あまり知られていません。 法政大学は明治13(1880)年、在野の法律家だった伊藤修(写真左)と金丸鉄(同右)らが東京駿河台に東京法学社を設立したのが始まり。 資料館内には両氏の功績を展示した一角があります。 中津と杵築…意外なところにライバル関係がありました。
木付から杵築へ
正徳2(1712)年、能見松平家三代重休の治世、徳川六代将軍家宣から下賜された朱印状で「木付」が「杵築」と誤記されてました。 幕府が木付藩と出雲大社の別名「杵築大社」を混同したことが原因とか。 一説によると出雲“きつき”大社に送られるはずの神輿が、誤って“きつき”藩に届けられたからだとも。 木付藩が幕府にお伺いを立てたところ、木付を杵築と改めることが許され、以降「杵築藩」が正式名称となりました。
城山公園から降りると、道を挟んだ向かい側に伸びる緩やかな坂。 江戸時代、収税や金銭出納の役所があったことから付いた名称です。 石段の数53、坂の勾配は24度、石段の蹴上がり15㎝、一段当たりの路面長は1.2m。 これらの数字は勤番の家老たちを城へ運ぶ馬や駕籠担ぎの歩幅まで計算したものだそうですよ。
西(二四)の富士
北台武家屋敷から城に向かって数えて24段目の石段。 その真ん中に「富士山」を象った踏石が敷かれています。 24段目にあることから「西(二四)の富士」と呼ぶそう。 東の富士山を西(二四)から拝む…という洒落ですね。 もう一段下には湖に映る逆さ富士まで描かれている凝りようです。
勘定場の坂を上ってすぐのところにある武家屋敷です。 宝暦年間(1751〜1763)は安西源兵衛の居宅でしたが、寛政の大火(1800)で焼失。 文化13(1816)年に建設された藩主休息用の御用屋敷「楽寿亭[らくじゅてい]」の一部に組み込まれました。 楽寿亭は文政7(1824)年に廃止され、その後は再び武家屋敷に。 後の調査で次席家老だった加藤与五右衛門(200石)の屋敷だったと分かりました。
外門
門をくぐって玄関へ。 ここで入場料を払います。 大人200円、中学生以下100円。 公共観光文化施設の共通観覧券を利用すると、磯矢邸を含む全7施設へおトクに入場できます。
邸内
屋敷は明治以降の増改築部分を除き、文政天保期(1800年代前半)の建築と思われていました。 しかし最近の調査で文久4(1864)年と刻まれた瓦や元治元(1864)年の棟札などが発見されています。
外観
現在の磯矢邸は加藤与五右衛門邸の一部で「玄関の間/客間の座敷/茶室」の三部屋が残っています。 ところで、なぜ安西でも加藤でもなく「磯矢邸」というのでしょう? それは磯矢さんという方が大正5(1916)年に屋敷を買い取ったからです。 磯矢さんは平成6(1994)年、屋敷を杵築市に寄贈しました。
庭園
庭園は屋敷中どの部屋からも眺めることができます。 しかも全ての窓枠ごとに違う風景が映るよう設計されています。 例えば床柱にはもたれかかっても痛くないように「背ずり」という工夫が施されたり、藩主休息用の御用屋敷ならではのこだわりが隅々までいきわたっています。
栗原克実美術館
母屋に隣接する蔵屋敷が美術館として公開されています。 栗原克実は千葉県在住の画家で、寄贈された墨彩画を数多く展示。 磯矢邸の観覧料を支払えば美術館も併せて見ることができます。
藩校とは江戸時代に幕府や諸藩が主に幕臣藩士の子弟を教育するため、自領に設置した教育施設のことです。 杵築藩は初代藩主英親以来、代々の藩主は教育に力を入れてきました。 天明8(1788)年、杵築藩は七代藩主親賢[ちかかた]の時に藩校「学習館」を設立。 士族の子弟はもちろん、平民の子弟でも希望者には入校を許可していたそうです。 しかも教授には三浦梅園や帆足万里といった当時の豊後国でトップクラスの学者を起用。 こうした質の高い教育が後に数多くの人材を輩出する遠因となりました。
藩校の門
学習館の「藩主御成門」が歴史遺産「藩校の門」として、そのまま杵築小学校の校門として今でも使われています。 こうした例は全国的にも非常に珍しく、藩政時代から学問に力を入れてきた気風の名残と言えそうです。
模型
学習館は廃藩置県で廃校になりましたが、その気風は杵築小学校にも受け継がれます。 藩校の門内側には旧藩校の1/30分の一の模型を配した『藩校模型学習館』があります。
藩校の門と道を挟んだ向かい側に立つ武家屋敷「能見邸」。 「能見」の姓が示す通り、ここは藩主能見松平家一族の家柄。 ここの能見家は五代藩主松平親盈[ちかみつ]の九男幸乃丞が初代です。
外門
外門をくぐると正面には立派な玄関。 ここは他の武家屋敷と違って見学は無料です。 寛政の大火(1800年)以前は岡藤介(三百石)の屋敷だったそう。 火災後は磯矢邸のところに出てきた楽寿亭の御用屋敷に組み込まれ菜園場になってました。 能見氏が入ったのは、その後と思われます。
邸内
実は能見邸の建築年代を特定する資料はありません。 建築様式などから推測すると建てられたのは幕末期と思われます。 藩主に連なる格式高い家柄だけに、庭や建物などの様式美は一味違います。 また、邸内の隅々に埋め込まれた高度な建築技術を鑑賞するのも楽しみのひとつです。
庭園
平成19(2007)年3月、邸宅は能見家の当主マサさんから杵築市に寄贈されました。 翌20(2008)年度から2年に渡って総費用7000万円を超える大規模な保存解体修理を実施。 敷地面積1440平方m、延べ床面積250平方m。 屋敷内に玄関の間や上段の間など12部屋を持つ、建築当初の姿が復活。 同22(2010)年4月1日から市の観光施設として一般公開されました。
台の茶屋
改修に伴いギャラリーや喫茶コーナー、物販スペースなどを新設。 武家屋敷が街歩き途中の休憩所として楽しめるようになりました。 ここ「台の茶屋」は食事や甘味などを楽しめる和風喫茶コーナー。 日本庭園を眺めながら縁側で抹茶などの和風甘味が味わえますよ。
能見家の隣に立つ、全体的に上級武士の屋敷構造を良好に留めている武家屋敷、それが大原家です。 宝暦年間(1751~1764)の頃は相川東蔵の屋敷でした。 東蔵が知行を返上した後は家老の中根斎、岡三郎左衛門を経て御用屋敷「桂花楼」に。 天保3(1832)年に桂花楼は大手広場にあった牡丹堂に移り、その後は御用屋敷として続いていたようです。 嘉永年間(1848~1853)の頃は既に家老上席・大原文蔵の屋敷となっていました。 いつから大原家がこの屋敷の主人になったかは不明ですが、文政年間(1818~1830)以降と思われます。 平成元(1989)年から観覧のため一般に開放されました。
長屋門
門は磯矢邸や能見邸のような簡素な門ではなく、堂々とした長屋門。 これだけで住居の主が並の家臣ではなかったことが一目瞭然です。 長屋門は幅八間半(15.46m)、奥行二間(3.64m)の堂々としたもの。 往時は左側に桁行四間半(8.18m)の建物が付属していたようです。
玄関
長屋門を通って敷石伝いに進むと真正面に式台を備えた玄関が現れます。 式台とは玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの部分で、客に送迎の挨拶をする場所のこと。 入母屋造の屋根を備えた式台は幅二間(3.64m)、奥行一間(1.82m)もの広さがあります。 こうした重厚な玄関構造を備えていることもまた、格式の高い家の証かと思われます。
邸内
式台玄関から邸内に入ると八畳の「次の間」を経て十畳の座敷へとつながります。 大原家の特徴は接客用の表部分と居住用のプライベート部分が完全に分離されている点。 単なる個人宅ではなく、藩の重職が公務に使用する公邸としての性格も持ち合わせていたことが分かります。 質素堅実でありながら随所に格式の高さが見え隠れする点が、大原邸の面白いところです。
外観
656坪の敷地には母屋と、その東側には回遊式の庭園が広がります。 寄棟造の茅葺屋根を見上げると、昔の面影が今でも伝わってきます。 この主屋がいつごろ建てられたのかは資料がないので分かりません。 桂花楼の建物が今でも残っているのだとしたら、牡丹堂に移転した天保3(1832)年には既に存在していたことになります。
庭園
築山に接して八間ほどの池を掘り、その真ん中に中島を築いき、石橋が渡してあります。 池の周囲には飛び石が配置され、築山と池と中島を回遊できる構造になっています。 杵築の武家屋敷の中でも最も整った庭園であり、そこがまた大原家の格の高さを窺わせています。
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北台の武家屋敷から少し離れた場所にある杵築の名門医家、佐野家。 代々御典医として杵築藩に仕え、医家として高名を馳せてきました。 徳川家康が江戸に幕府を開いた慶長8(1603)年、佐野家の始祖徳安は伊賀国で誕生。 徳安は元和元(1615)年に勃発した大阪夏の陣の騒乱を避けて豊後岡藩へ。 藩医で伯父の佐野卓節の許で医学を修めた後に独立し、杵築へ移り開業。 その医療技術は「刀圭(医術のこと)ノ妙、神ノ如シ」と謳われたほど。 噂を聞きつけた時の藩主小笠原忠知は徳安に宅地を与え、侍医として召し抱えます。 以来約400年、佐野家は御典医として数多くの名医を輩出してきました。
外観
現在では管理者が佐野家から杵築市に変わり、平成2(1990)年11月から一般公開されています。 母屋は天明2(1782)年に建築されたのもので、木造建築物としては杵築市最古。 その割に旧状を良好に留めているのが特徴です。 昭和末期に13代当主の雋一氏が亡くなるまで現役の病院だったからでしょう。
玄関
中津市の村上と大江の両医家資料館が完全に文化施設化しているのと比べ、佐野家には病院としての名残が残っています。 病院として機能していた古民家の構造を、武家屋敷と比べながら観察してみるのも面白いかもしれません。 ちなみに14代当主の佐野武氏は現在、胃がん手術で世界トップクラスの技術を駆使するリアル“スーパードクター”。 佐野医家400年の歴史は、今でも連綿と受け継がれています。
邸内
藩主の学問好きが影響したのか、杵築城下には学問や芸術に高い関心を持つ風土が醸成されました。 佐野家の歴代当主も医師である傍、詩文や書画、茶道、俳諧などの分野で優れた業績を残しています。 また、三浦梅園や田能村竹田といった豊後の文人たちとも深く交流してきました。 医学を究めながら風雅を愛してきた佐野家の伝統が、この邸内に静かに息づいています。
大原邸の角を左へ折れると石畳が美しい坂道が現れます。 北台の武家屋敷と商人町の谷町通りを結ぶ「酢屋の坂」。 直線の長さは約90mで、高低差約7mという急坂。 谷町通りから先は南台の武家屋敷と結ぶ坂道「志保屋(塩屋)の坂」が続きます。 名前の由来は谷町の豪商、志保屋(塩屋)長右衛門と深く関わっています。 谷町から南台へ続く坂の下で長右衛門は「塩屋」という酒屋(ややこしい!)を繁盛させました。 ならばと今度は谷町から北台へ続く坂の下で酢屋の商売を始め、またも成功。 各々の商いから「志保屋(塩屋)の坂」「酢屋の坂」と呼ばれるようになったそうですよ。
休憩所
酢屋の坂の中ほどに「ご休憩所」と書かれた小さな看板。 休憩所というより、ちょっとした公園です。 ベンチに座って周囲の風景を眺めていると、この坂が江戸時代と現代を結んでいる…そんな錯覚を覚えます。
「酢屋の坂」を下って谷町通りを渡ると、その先に伸びるのが南台の武家屋敷と結ぶ「塩屋(志保屋)の坂」。 長さは約100mで高低差が約8mの急坂です。 この二つの坂は映画やテレビの時代劇ロケでもよく使われる杵築の名所。 杵築は日本で唯一の「サンドイッチ型城下町」と呼ばれていますが、それは2つの高台(北台と南台)の間に谷間(谷町通り)が通る構図に由来しています。 江戸時代、杵築城から西に伸びる二本の高台上に武士たちは屋敷を構え、その谷あいで町人たちは商いを営んでいました。 塩屋の坂から酢屋の坂を眺めると、まさに「凹」の形状がサンドイッチのように見えてきます。
松山堂
塩屋の坂下に店を構えて60年余、昭和28(1953)年創業の和菓子店です。 バターと鶏卵を使った皮で、レーズンを混ぜた白餡を包んだ和菓子「三万二千石」は杵築を代表する銘菓。 また、斜向かいにある綾部味噌醸造元の天然醸造赤味噌を使ったみそ饅頭も人気とか。
綾部味噌醸造元
酢屋の坂下に店を構える、創業明治33(1900)年という老舗の味噌蔵。 建物は「塩屋の坂」の由来となった豪商志保屋の屋敷で18世紀の建築と推定されています。 町家としては杵築最古の部類に属し、典型的な商家の構造を有する建物。 平成8(1996)年には市の有形文化財に指定されています。 材料には大分県内産の大豆、国産の米、九州産の大麦を使用。 地下の天然水で仕込み、全工程を手作業で製造しています。
江戸時代の杵築には諸国を巡りながら歌舞伎や人形劇を演じる「杵築芝居」がありました。 杵築芝居は専用の劇場を持たず、筵で囲った簡易的な小屋で行われていたそうです。 年を追うごとに人気は高まり、明治時代には6つの劇団がしのぎを削っていました。 明治20(1887)年、全盛期を迎えた杵築芝居に専用劇場「衆楽観」が誕生。 600人以上収容できる大劇場で、杵築芝居の盛り上がりはピークを迎えました。 しかし昭和に入ると次第に衰退の一途をたどり、昭和28(1953)年に閉館。 それから56年後の平成21(2009)年、杵築市役所の向かいに「きつき衆楽観」が復活しました。
大衆演劇の新たな拠点
衆楽観は市と文化庁の町並み保存事業として、大正時代の酒蔵を改修した劇場です。 柱や梁は「衆楽観」のものをそのまま使い、往時の雰囲気が味わえます。 また、舞台以外にも食事処やギャラリー、売店や観光交流センターを併設。 大衆演劇の新たな拠点として機能しています。
“和服の似合う町”杵築の「和服応援宣言」を実践しているお店です。 150着もある着物の中から1着を2400円でレンタル。 おまけに着付けまでしてくれるというからありがたい話です。 杵築では着物姿で公共観光文化施設を訪れると入館料が無料になります。 さらに市内の各店舗では食事代の割引や粗品の進呈といったサービスも。 着物なんて一度も着たことのない向きには和装にチャレンジするいい機会では?
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塩屋の坂を上りきったところにある大名屋敷。 「きつき城下町資料館」に隣接しており、休憩所として無料で公開しています。 この通りは「家老丁」といい、文字通り藩の重臣たちの屋敷が立ち並んでいました。 南台武家屋敷の東端に位置し、お城に近かったので登城に便利だったからでしょう。 ここに立つ中根邸は杵築藩家老、中根氏の隠居宅。 「家老丁」に残る家老屋敷は現在ここだけです。
長屋門
分厚い築地塀の真ん中には堂々たる白壁の長屋門。 慶應3(1867)年に建築されたことが分かっています。 中根家の祖先は三河国中根村出身の中根長兵衛末治。 能見松平家五代重忠(初代藩主英親の祖父)に召し抱えられました。 能見松平家が杵築に移封されたのに随伴し、正保2(1645)年に定住。 やがて杵築藩の筆頭家老にまで出世しました。
邸内
現存している母屋は平成4(1992)年度の解体保存修理の際に発見された棟札等から、文久2(1862)年に中根家九代家老源右衛門が建築したものと判明しています。 中根邸は余生を過ごすために作られた隠居宅だけに、老人でも無理なく暮らせるように設計されているのが特徴。 江戸時代の中根邸は杵築最大の武家屋敷だったそうですが、現在は隠居宅を残すのみ。 残念ながら往時の規模は想像に任せるしかないようです。
茶室
邸内で印象的なのが茶室。 6畳の茶室のほか、10畳の座敷にも炉が切られており茶室として使用できます。 その隣には3畳ほどの茶の控え室もあり、たびたび大規模な茶会を開催していた模様。 茶の湯の文化が浸透していた杵築の地で、隠居後の暮らしに茶の湯が大きな楽しみになっても不思議ではありません。 現役家老の屋敷だった大原邸と比べると、邸宅の持つ役割の違いが見えて興味深いところです。
庭園
庭園は他の武家屋敷と異なり、どこか優しさが感じられます。 重責から解き放たれたご隠居の「静かに余生を過ごしたい」という思いが反映されているのでしょうか? 庭園を通り抜けると小径は「きつき城下町資料館」に続いています。
中根邸の庭園を抜けると姿を表すのが「きつき城下町資料館」。 杵築の城下町全体を歴史公園に見立て、その中核的機能を担う施設です。 鉄筋コンクリート3階建てで、各階に常設展示が設けてあります。 1階には「坂のある城下町」をテーマに歴史年表や城下町復元ジオラマなどを。 2階には「武士のくらしと文化」がテーマの町役所日記や町人の文化に関する物と、「杵築の生んだ先人たち」をテーマに三浦梅園、物集高見、麻田剛立、重光葵などに関わる各種の資料。 3階には杵築歌舞伎、漁業の歴史と漁具、畳の材料となる七島藺(しっとうい)の歴史と生産用具などを紹介しています。
御所車
1階のロビーには天神祭で用いられる巨大な御所車が展示されています。 常設展示室にある復元ジオラマは昔の地図を基に、武家屋敷や町家などが連なる江戸時代の街並みを立体的に再現。 杵築の特徴である「サンドイッチ型」という城下町の特徴がひと目で分かります。 2階には企画展示室では年2回、文化財や旧家の収蔵品などをテーマに企画展を実施しています。
松樹
城下町資料館から展望台へ向かう途中にある食事処。 地元の食材を使った郷土料理が自慢の店です。 名物はご当地メニュー「杵築ど~んと丼」。 「炭火焼せせり丼」は希少部位である鶏の首の肉「せせり」を塩コショウだけで焼き、ご飯にドーンと乗せた丼。 「超やわらか牛すじ丼」は県内産の牛筋を柔らかく煮込み、甘辛醤油で味付けしてご飯にドーンと乗せた丼。 でも時間の都合で、どちらも賞味できませんでした…残念!
松樹から緩やかな坂を登ると、丘の上に堂々たる和風建築が立ってます。 杵築市の初代名誉市民となった故・一松定吉氏の邸宅「一松邸(ひとつまつてい)」。 昭和2(1927)年から2年もの歳月をかけて建てられ、同4(1929)年に落成しました。 なのでここは江戸期の武家屋敷ではなく昭和初期の建物。 昭和32(1957)年に杵築市に寄贈され、公民館「一松会館」の名で市民に利用されてきました。 市役所の新築移転に伴い、庁舎の前にあった一松会館も併せて移転することに。 平成12(2000)年、杵築城と杵築湾、八坂川を一望するこの高台へ移築されました。
内観
高級木材を贅沢に使い、建築費用は今の金額に換算すると5億円相当とか。 欄間は杉の柾目板に透し彫りを施したシンプルなものですが、当時はこの欄間1枚の制作費で民家一軒が建ったほどだとか。 客人用トイレの天井は、二条城や日光東照宮など著名な寺社で多く見られる格天井(ごうてんじょう)。 ほかにも杉の一枚板を敷いた縁側、戸袋を減らすため雨戸を直角に回転できるよう細工をした「回り戸」など。 見どころ満載です。
一松定吉という人物について
江戸時代、一松家は杵築藩の剣術や槍術の指南役を務める武門の家でした。 明治になって養子に入った定吉氏は上京し、法曹界で活躍した後に政界へ転身。 昭和3(1928)年に衆議院議員に当選して以来、34年間にわたり国会議員を務めます。 戦後の混乱期には3つの内閣で国務・逓信、厚生、建設の各大臣を歴任。 この屋敷を建設している真っ最中に衆議院議員に初当選したわけですね。
JR日豊本線の杵築駅は武家屋敷を模した小さな駅舎です。 構内には観光案内所もあり、情報収集には便利。 ただ、近くに買物や食事をするところが見当たりません。 ここを観光の起点にするには無理があるかも。
市街地までは路線バスで
駅は市街地からムッチャ離れています。 徒歩だと時間がかかるので路線バスの利用がオススメです。
杵築バスターミナル
北台武家屋敷の高台が杵築城の手前で尽きるあたりの北側。 県道49号線沿いにあり、杵築城へも武家屋敷へも徒歩で容易にアクセスできます。
杵築ふるさと産業館
ただしバスターミナル自体には待合室しかないので、買物や食事などは裏手の「杵築ふるさと産業館」までどうぞ。 ここには観光案内所、土産物店、食事処「故郷」などが揃っていて、何かと便利です。
8月15日は終戦記念日。 昭和20(1945)年のこの日、日本がポツダム宣言を受託し、第二次世界大戦が終結しました。 同年9月2日、米海軍の戦艦ミズーリ号の上で首席全権として降伏文書に署名したのが時の外務大臣、重光葵[まもる]でした。 重光は明治20(1887)年に当時の三重町(現豊後大野市)に士族の次男として生まれ、3歳の時に父の実家がある杵築に移住します。 杵築高等小学校、旧制杵築中学と少年時代のほとんどを杵築で過ごし、熊本の旧制第五高等学校から東京帝国大学を経て外務省に入省。 戦前はドイツ、イギリス、アメリカなど主要国の外交官として活躍しました。
「無迹」とは「誇れるような足跡や実績がない」という意味だそうです
重光は戦後A級戦犯として逮捕されますが、後に釈放され再び政界に復帰。 鳩山一郎内閣の副総理兼外務大臣として重責を担い、特に日ソ国交回復や国連加盟では大きな功績を残します。 その重光が杵築で過ごした少年時代、蔵の2階で勉強に励んだという屋敷が「無迹庵[むせきあん]」として保存、公開されています。 館内には遺品や写真が多数展示されてますよ。
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