
PON!と先斗町で楽しむ納涼床(川床)
京都PON!と先斗町で楽しむ納涼床(川床)
まいどまいど! 京都を代表する繁華街っちゅうたら、PON!と先斗町かもしれまへんな。 先斗町と書いて「ぽんとちょう」。 なんや読めそうで読まれへん、えらい難読地名ともなってまんねやけども、そんな難読地名にも関わらず、街並みは情緒あふれる昔ながらの趣を今に伝え、国内外から注目を浴び、今日もぎょうさんの観光客が訪れてはりまんねん。 夏はなんちゅうっても、納涼床でんな。 夏季限定で開放される納涼床は避暑の場所としても人気で、一歩、お店に入ると足元には鴨川を流れる水の流れ。 テーブルの上には地産地消を根差した京都の美味しいお料理が少量ずつ運ばれてくる。 カップルと、ご家族と、ご友人とゆったりとした時間を過ごすことができまんねん。 ほんでまた、ぶらりと周辺を散策したときに、見つけたおもろそうな場所も。 今回も京都の魅力を求めて、ぼちぼちと皆さんにご案内していきまひょ! ほな、まいどおおきに。
京都府京都市中京区の鴨川と木屋町通の間にある花街(芸妓屋、遊女屋が集まっている区域)。 先斗町(ぽんとちょう)と読む。
先斗町
1670年、鴨川の州であった場所を護岸工事で埋立て、新河原町通と呼んだ。 当時は、茶屋、旅籠などが置かれていたが、芸妓、娼妓が居住するようになった。 京都市左京区川端二条東入るにあった二条新地の出稼ぎ地として認められ、明治初期に独立。
鴨川をどり
1872年、鴨川をどりが初演。 舞踊の流派は篠塚流、柳流、尾上流がある。
納涼床「川床」
飲食店や居酒屋などが立ち並ぶがなかでも全国的に有名なのが鴨川に面した形で営業を続ける納涼床「川床」。 また、先斗町には「先斗町公園」があり、太平洋戦争中の建物疎開で作られた空き地がある。
京料理をはじめ、お造りやサラダなどが味わえる居酒屋。 店内にはカウンター席とテーブル席がある。
万願寺唐辛子とキノコの煮浸し
おばんざいでは、万願寺唐辛子とキノコの煮浸し。
京生湯葉のおさしみ
京生湯葉のおさしみ。
やっぱり、京都に来たなら、京料理を気軽に味わいたい。 京都の高級飲食店街・先斗町のすぐ近くにある繁華街では比較的に安価な居酒屋が軒を連ねている。
九条葱酢味噌和え
生ビールを注文しつつ、楽しんだのは、串焼き盛り合せ(7串)、焼きとり盛り合せ(5串)をはじめ、 京都の葱といえば、九条葱ということで、九条葱酢味噌和え。 酢と味噌がうまく絡み合って、口の中でピリッと美味しく感じた。
京湯葉春巻
噛んだ瞬間、サクッとした食感に中からは、ジワッと柔らかい京湯葉春巻など。
水菜とお揚げの柚子胡椒煮
柚子胡椒がきいた鍋に水菜とお揚げの柚子胡椒煮。
江戸時代、現在の高知県を拠点とする土佐藩の藩邸があった。 高瀬川に面して門が開かれ、高瀬川には土佐橋が架橋。 1690年には、京都藩邸の法律が定められ、藩邸は藩の京都連絡事務所となり、留守居役が詰め、町人の御用掛を指定、各種の連絡事務にあたった。 武市瑞山、坂本竜馬、中岡慎太郎、後藤象二郎ら土佐藩出身の志士が所属。 江戸時代、土佐藩京屋敷内に土佐稲荷が遷座。 明治時代、土佐藩京屋敷が売却。 土佐稲荷は京都府京都市中京区の近江屋が元土佐藩用人邸を買い取り、遷座。 境内には土佐藩にゆかりのある坂本龍馬の像が建立。 立誠小学校が開校するも閉校。
別名、岬神社。 祭神は、倉稻魂神、猿太彦命、大宮乃賣命。 1348年、鴨川西通りの中洲の岬に祠を建立。 江戸時代、土佐藩京屋敷内に遷座。 明治時代、土佐藩京屋敷が売却され、下大阪町に奉遷。 京都府京都市中京区の近江屋が元土佐藩用人邸を買い取り、1887年に現在地に遷座。 境内には土佐藩にゆかりのある坂本龍馬の像が建立。
江戸時代、高瀬川は豪商角倉了以と素庵によって開削。 高瀬川という名称の由来は日本各地で使用された川舟の一つである高瀬舟から。 開削後、高瀬川には高瀬舟などが頻繁に行き交い、舟入は荷物の積み下ろしと船の方向転換に使用された。 一之舟入のみが現存し、二之舟入、三之舟入、五之舟入、六之舟入、七之舟入、八之舟入、九之舟入の各舟入は消滅。
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勤皇の志士として活躍した本間精一郎。 1834年、越後国三島郡寺泊(新潟県長岡市)生まれ。 江戸で清河八郎らと親交を結び、尊王攘夷の思想に目覚め、薩摩や土佐に倒幕を説いた。 性格は利発で勝気とも言われ、論争に強く自己の実績を過大に喧伝していたため、薩摩や土佐の浪士らが彼の存在を疎ましく思い、彼にしこたまの酒を飲ませてから殺害する計画を立てた。 計画は実行され、当地は本間精一郎遭難の地として語り継がれている。
靴を脱いで下駄箱に靴を入れようとすると、「お靴はそのままで」と言われ、脱いで2階へと上がった。 奥へと進むと、目の前には鴨川が見え、京都の街並みがはっきりと見える。
納涼床の川床(かわゆか、かわどこ)
「日中で日差しがきつく外は暑いので・・・」 とエアコンの利いた涼しい場所でお昼を楽しむことにした。 地下を走る京阪電車の駅舎や鴨川沿いを走って汗を流す人、犬の散歩で楽しんでいる人など、京都の人たちの日常が柿間みえた。
天ぷら御膳
鱧や河豚、鴨を使用した懐石料理があるが、今回は京都の名物を使用した季節の野菜、魚介を天婦羅に、ボリューム満点の盛り合せと生湯葉と鮮魚のお造りが一つになった天ぷら御膳(1日限定10食)。
3種類の塩
お造りや天ぷらは3種類の塩で好きな塩を選び、味の変化を楽しみながら楽しむ京懐石は2000円から。
江戸時代に活躍した土佐藩郷士の坂本龍馬と結婚した楢崎龍の寓居跡。 1841年、医師の楢崎将作と貞(夏)の長女として生まれた。 別名、お龍。 家族には光枝、三女・起美(君江)、太一郎、健吉がいた。 生け花、香道、茶の湯などを嗜んだが、炊事は苦手であったとか。 母は悪者に騙され、妹の起美が島原の舞妓に、光枝が大坂の女郎に売られると知り、お龍は着物を売って金をつくると大坂に下り、刃物を懐に抱えて死ぬ覚悟で男2人を相手に啖呵を切って妹を取り返した。 お龍は七条新地の旅館「扇岩」で働き、龍馬と出会う。 初めて会ったときに名前を聞かれ、紙に書くと名前が似ていたことから笑っていたとか。
寓居跡
龍馬は結婚を決意し、母に申し入れて快諾。 寺田屋事件で龍馬は両手指に重傷を負い、西郷隆盛の勧めもあって、刀傷治療のために薩摩へ下ることを決意し、薩摩藩船「三国丸」が就航する大坂に出向いた。 これが後の「日本で初めてとなる新婚旅行」として知られ、大阪市港区には碑が建立。
鴨川は京都市内を流れ、桂川、宇治川、木津川と合流し、淀川へと名称を変え、大阪湾へと注ぐ。 そんな鴨川の夏の風物詩(5月1日から9月30日までが一般的)といえば納涼床。 納涼床は川床(かわゆか、かわどこ)とも呼ばれ、鴨川沿いに位置する先斗町などでは一流の料理人が訪れた観光客に腕を振るう。 ここでは主に、和食や懐石料理、他にはステーキなどがある。 川床は陽が沈む午後5時から(店舗により異なる)の営業となっているが、午前11時から(店舗により異なる)ランチとして楽しむことができる。
納涼床の川床(かわゆか、かわどこ)
靴を脱いで下駄箱に靴を入れようとすると、「お靴はそのままで」と言われ、そのまま奥へと進んだ。 目の前には鴨川が見え、京都の街並みがふんわりと見える。 隣のお店も見渡すことができ、時間が遅くなるにつれ、隣のお店で楽しむお客さんの姿が目立つ。
はじめに
お造りから。
次に
煮物など。
温かいもの
湯葉を味わいつつ。
ご飯と一緒に
ご飯と一緒に汁物も。
食後のデザート
食後のデザートにはミルク味のアイス。
京都市中京区先斗町通三条下ル 1925年、着工し、1927年に竣工した。 当時「東洋趣味を加味した近代建築」として注目を集めた。 設計は、大林組の技師、木村得三郎氏。 木村氏は、大阪松竹座や東京劇場などを手がけた。 鉄筋コンクリート造り、地上四階、地下一階で、と賞賛されました。 歌舞練場の屋根には中国の蘭陵王の舞楽面を型取った鬼瓦が展示。
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山号は慈舟山。 宗派は浄土宗西山禅林寺派。 本尊は阿弥陀如来 桃山時代、当地付近は三条河原の中洲であった。 1611年、京都の豪商・角倉了以によって高瀬川を掘削。 その時に発見された石には秀次悪逆塚と刻まれていたとか。 これは1595年に自害した豊臣秀次の石塔で、秀次は叔父の豊臣秀吉から謀反を疑われて高野山に追放されて切腹。 家臣5人、秀次の妻妾、幼児など約30人が処刑、遺体は河原に埋められ、塚と石塔が建立。 了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために堂を営むこととした。 寺号は秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」が由来。
1802年から1814年に刊行された十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」。 栗毛は栗色の馬、膝栗毛は自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意。 東海道中膝栗毛に登場する主人公でお江戸・神田八丁堀の住人、栃面屋弥次郎兵衛と居候の喜多八の2人の名前を足した「弥次喜多」。 喜多八は妻と死別、仕事上の失敗から勤務先を解雇されるなどの不運が続き、つまらぬ身の上に飽き果て、身上を整理して財産を風呂敷包み一つにまとめ、厄落としにお伊勢参りの旅に出た。 江戸から東海道を西へと進み、伊勢神宮、京都、大坂へと巡る。 道中、狂歌・洒落・冗談を交わし合い、いたずらを働いては失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。
佐久間象山は信州松代藩出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力し、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らを輩出。 1864年に幕府の命で上洛し、開国論を唱えて公武合体に努め、刺客に惨殺された。 大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に、緒方洪庵の適塾で学び、兵学者となった。 長州藩の軍事指導者として活躍し、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力した。 廃刀論で士族の反感を買い、三条木屋町にて反対派士に襲われ、敗血症となり大阪の病院で死去した。 二人はともに、幕末の兵学者で、木屋町御池付近に居を構えていた。
江戸時代から明治時代にかけて活躍した土佐藩士で政治家。 板垣退助・佐々木高行と並ぶ土佐三伯の1人。 1838年、高知城下片町生まれ。 幼少期、叔父・吉田東洋に預けられ、少林塾に通い、柳河藩士の大石種昌に大石神影流剣術を学んで文武の業を修めた。 1858年、幡多郡奉行となり土佐藩の大坂藩邸建築のための普請奉行に就き、御近習目付となるも東洋が暗殺され、任を解かれた。 1863年、江戸に出て開成所で大鳥圭介に英語を学び、会津藩士・高橋金兵衛に航海術を学んだ。 1864年、藩政に復帰、前藩主で事実上藩政を執った山内容堂により大監察や参政に就く。
ホテルの一角で
武市瑞山を獄に断じ、藩命を奉じて薩摩、長崎に出張、上海を視察して海外貿易を研究。 坂本龍馬の船中八策に基づいて将軍・徳川慶喜に対し大政奉還論を提議して実現。 薩摩藩の西郷隆盛、大久保利通、小松帯刀らと会談、薩土盟約を締結するも解消。 天皇謁見に向かう英国公使パークス一行の護衛を勤め、パークス暗殺を計画して斬り込んできた浪士と抜刀して斬り合う。
大阪府知事も
この事件の功により、中井弘と共にイギリスのヴィクトリア女王から恩賜の刀を贈られた。 明治時代、大阪府知事、参与、左院議長、参議、工部大輔などの要職を歴任。 征韓論争に敗れて板垣退助、西郷隆盛らと共に下野し、愛国公党を結成、民撰議院設立建白書に署名。 商社「蓬莱社」を設立、ジャーディン・マセソン商会から代金を借り、利息と手数料で利益は商会にわたる。
三菱の岩崎弥太郎と
福澤諭吉の仲介で三菱の岩崎弥太郎に売却、三菱は後藤に対して毎月1千円を支払う約束を交わす。 板垣退助とともに自由党を結成、板垣との洋行計画について内部で対立し、馬場らを追放。 朝鮮留学生を支援した福澤の要請で朝鮮開化派の金玉均を援護、板垣とともにフランス公使サンクイッチを訪問、朝鮮国内の鉱山利権譲渡の見返りに自由党壮士を組織、朝鮮半島に送り込む計画を立てるも頓挫。
明治時代
明治時代、大同団結運動によって指導者となり、保安条例の施行により有力民権家が追放され、運動は転機を迎えた。 黒田内閣、山県内閣、松方内閣で逓信大臣、伊藤内閣で農商務大臣を歴任。 商品取引所の開設にまつわる次官の収賄事件の責任をとって大臣職を辞職。