石山本願寺で合戦が勃発。織田信長が歩んだ本能寺の変までの軌跡
大阪石山本願寺で合戦が勃発。織田信長が歩んだ本能寺の変までの軌跡
まいど! 今もなお、歴史上の人物として人気を集める戦国武将の織田信長。 愛知県・尾張に生まれ、桶狭間の戦いに代表される戦乱を乗り越えて、明智光秀による本能寺の変で自刃するまでに大阪で過ごした織田信長。 学校で勉強する教科書には載ってへんようなホンマの歴史をご案内いたします。 織田信長のゆかりの場所といえば、生まれ故郷・桶狭間の戦いで舞台となった愛知県や本能寺の変が勃発した京都府のイメージが強いかもしれまへんが、大阪府下では、現在の大阪城公園や高層ビルが集まる大阪ビジネスパークとその周辺で勃発した石山合戦が代表されます。 石山合戦は、石山本願寺(大阪城の築城前に存在した)が舞台となり、激しい戦いが繰り広げられたといいます。 織田信長ゆかりの場所は、福島区や西淀川区など大阪市内だけでなく、茨木市、高槻市、三島郡島本町、守口市、堺市、貝塚市、和泉市、泉南市、南河内郡河南町、南河内郡千早赤阪村など、大阪府内のほぼ全域に及びます。 織田信長が大阪府内で歩んだ軌跡を今回のおでかけプランにギュギュギュ!っと凝縮。 ぜひ、皆様のおでかけプランの参考にしていただければ幸いです。
大阪城公園内にある碑。 1496年、坊舎が建てられ、蓮如が隠居所とした。 1504年、大坂一乱が勃発。 1532年、本願寺教団の本山となった。 山科本願寺の滅亡後、大坂が本山となった。 1580年、織田信長との石山合戦の末、顕如が明け渡し、その直後に焼亡した。 その後、豊臣秀吉が跡地に大坂城を築き、城下町を建設した。 同寺建立以前、古墳または生国魂神社の境内であったとも言う。
戦国時代の城郭。 1531年、中嶋の戦い(細川高国と三好元長の戦い)が勃発。 細川高国と関係の深い浦上村宗が築城した。 細川氏綱とは、舎利寺の戦い(細川晴元や三好長慶の戦い)などで活躍した武将。 1570年、三好三人衆は、野田城を増築、籠城した。 1576年、野田城は、織田信長によって落城した。 安土桃山時代、織田信長と三好三人衆と間で野田城・福島城の戦いがあった。
創建時期などの詳細は不明である。 境内には、「天治大治」の年号が記された石灯篭がある。 牛頭天王社から八坂神社に改称された。 この付近は、鷺洲や海老江洲と呼ばれた砂洲であった。 1570年、野田城の三好一族との戦いで織田信長は戦勝を祈った。 明治時代、俳壇で活躍した松瀬青々の句碑が境内に建立されている。 毎年12月15日深夜、宮座神事が古式そのままに非公開で施行されていると言う。 1972年、大阪府無形文化財に指定。
1570年、本願寺と織田信長の間で石山合戦が始まった。 1575年、中津川で織田方の荒木村重と戦い敗れ大和田城は落城となる。 1576年、荒木村重は織田信長の命で石山本願寺包囲のため吹田・尼崎など10城を築いた。 1580年、石山合戦が終わると同時に織田信長は阿波仁衛門に築城を命じた。 現在、大和田城跡碑は、大和田小学校内に建立されている。
原田村を中心に活躍していた土豪原田氏の居城として知られている。 原田城は、「北城」と「南城」の2ヶ所を拠点とし、当地は、北城として指定された。 1541年、木沢長政軍は三好長慶の越水城を攻囲する一方、原田城を攻城。 1547年、細川晴元軍によって原田城を攻城。 1987年、豊中市指定史跡に指定された。 2007年、隣接する「旧羽室家住宅」の庭園が、国の登録有形文化財に登録された。 有岡城の戦いでは、織田信長軍が伊丹城の攻城戦の砦として原田城を一つの拠点とした。
茨木氏は奉行の1人として活躍した。 摂津で国人一揆が勃発、細川政元が鎮圧に乗り出し、三宅城、茨木三郎氏の茨木城、吹田成枝氏の吹田城を落城。 茨木長隆が勢力を拡大させ、細川高国と細川晴元との対立では、晴元方について高国を敗死させた。 晴元と三好長慶が対立、江口の戦いで敗北。 茨木重朝は本圀寺の変や野田城・福島城の戦いで高槻城主・和田惟政と共に織田信長の先兵として活躍。 白井河原の戦いで重朝・惟政と荒木村重・中川清秀の間で戦闘が勃発、茨木城が落城した。
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1568年、猪名寺の戦いが勃発。 茨木重朝・伊丹親興連合軍と池田勝正軍の戦いとなった。 1569年、織田信長が足利義昭を擁立して上洛、摂津に入国した。 松永久秀が芥川山城で織田軍に与すると、久秀の家臣であった高山友照も従った。 1571年、池田氏の一家臣であった荒木村重が、摂津国内で勢力を拡大するために起こした戦いとなり、茨木・和田連合軍は幣久良山に陣どり、荒木・中川連合軍は馬塚に陣取った。 荒木村重は戦勝し、織田信長からも一目おかれる存在となる。 荒木・中川連合軍は茨木城、郡山城等を手中に収め、高槻城へと攻め込むことになる。
中川清秀
主家の池田氏で内紛が勃発、信長と敵対。 荒木村重と共に白井河原の戦いが勃発。 織田方の和田惟政を討ち取り、茨木城城主となり、独立勢力へ。 信長が村重を摂津の国主に据え、清秀もそれに従った。 村重が信長に対して有岡城の戦いが勃発。 共に信長に敵対したが、織田軍が大挙して攻撃、降参して家臣となり、逆に村重を攻撃、丹羽長秀や池田恒興旗下で転戦。 本能寺の変で信長の死後、羽柴秀吉の元へ向かった。
別名、入江城とも呼ばれている。 室町時代、入江氏の居城であったが、後に織田信長に滅ぼされた。 その後和田惟政、次いで高山右近が城主となった。 江戸時代、主に高槻藩の藩庁として用いられた。 1874年、廃城となる。
「大宰府天満宮に次いで日本で2番目に古い天満宮」として知られている。 祭神は、菅原道真命、配祀神武日照命、野見宿禰命。 武日照命が当地に降臨して、天神山(別名、日神山)に鎮座。 993年、勅使・菅原為理が太宰府に移動中、菅原道真の墓に参拝。 その後、この付近を通過時に牛車が動かなくなった。 付近には、弥生時代の天神山遺跡のほか、古墳が数多く残る。 1568年、三好山に築城された芥川山城との戦いで、織田信長が本陣を構えた。 1578年、キリシタン大名として知られる高山右近が当社に放火。 1582年、山崎の戦いの際、豊臣秀吉が本陣を構えた。
「天王山の戦い」、「山崎合戦」とも呼ばれる。 羽柴秀吉は高松城の毛利軍を包囲していたが、本能寺の変が勃発し、織田信長は自刃。 毛利軍との和議を結び、羽柴秀吉は当地へ急行し、明智光秀と激突した。
祭神は、天之御中主神。 聖武天皇の勅願により行基が高瀬里に鎮座した。 行基は高瀬付近で高瀬川(旧淀川)に架けた高瀬大橋とその橋を管理する高瀬橋院を建立。 高瀬川は、古歌にもうたわれ、平安時代には高瀬の淀、江戸時代には守口川とも呼ばれていた。 南北朝時代、足利氏と楠木氏の戦場となった。 応仁の乱では畠山氏、三好氏などの同族争いの場となった。 1570年、三好3人衆が四国より侵入、織田信長に味方した三好義継、畠山昭高らを攻めた。 1574年、佐久間信盛が河内の三好氏、一向一揆勢と戦った。 高瀬神社、高瀬寺が荒廃する。 江戸時代中期、高瀬神社が再興。
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織田信長は、その権力を以って、蘇鉄を安土城に移植。 夜更けの安土城で一人、天下を獲る想を練っていた信長は庭先で妙な声を聞き、森成利に探らせたところ、庭の蘇鉄が「堺妙國寺に帰ろう、帰ろう」とつぶやいていた。 この声に、信長は激怒し士卒に命じ蘇鉄の切り倒しを命じた。 家来が斧で蘇鉄を切りつけたところ、みな血を吐いて倒れ、さしもの信長もたたりを怖れ即座に妙國寺に返還した。 元の場所に戻った蘇鉄は日々に弱り、枯れかけてきた。 哀れに思った日珖が蘇生のための法華経一千部を誦したところ、蘇鉄のお告げにより、早速門前の鍛冶屋に命じて鉄屑を根元に埋めると蘇った。
小谷城は、堺で一番、古い城跡の一つに数えられている。 和泉の豪族として知られてきた小谷家の始祖平氏頼晴氏は、鎌倉時代、この地(若松荘)に地頭として赴任したのが始まり。 その小谷氏の居城として栂山城・豊田城とともに鼎城と呼ばれた。 南北朝時代、、南朝方で千早赤阪城と大雄寺(浜寺)結ぶ地点「狼煙」として重要な役割を果たした。 天野山金剛寺の行宮を守る城として、その任務を担ってきた。 1575年、根来党であった為、織田信長勢と戦い、落城した。 大坂夏の陣のとき、小谷氏は徳川方として参戦、功労をたて郷士となった。 江戸時代、上神谷地域を治めていた伯太藩渡辺家に仕え庄屋も務めた。
室町時代、願泉寺を中心に発達した自治都市の一つとして知られている。 1577年、一揆衆が集結し、織田信長軍との戦が勃発した。 1583年、本願寺が置かれ、寺内町として発展した。 江戸時代、貝塚ト半寺内として、商工業が発展した。 かつて、寺内町の周辺には、北を北境川、南は清水川が流れ、環濠を築いた。 北はが濠の役割を果たしていました。 清水川と交差する「紀州口」は旅籠屋が軒を連ね、旅籠町と呼ばれるようになった。 江戸時代、参勤交代時には紀州藩が度々、宿泊に訪れた。
役小角が当地で7日間修法し、霊木を得て如意輪観音を彫った。 672年、役小角によって小堂を建立し、創建。 1336年、後醍醐天皇綸旨によって祈祷所となった。 源頼朝、足利義満などが当地に訪れ、祈願所として、寺領安堵を行ったとされる。 1577年、織田信長が紀州高野山攻めの際、付近を攻撃、焼失した。 豊臣秀頼により再建。
700年代、聖武天皇の勅願寺として行基により開創された。 1577年、織田信長の雑賀攻めにより、全山を焼失した。 境内はツツジの名所として知られ、重森三玲作の庭園「法林の庭」が話題となっている。
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真言宗泉涌寺派の仏教寺院。 別名、仁王門前にある石段脇に咲くアジサイが美しいと評判であることから、アジサイ寺とも呼ばれている。 長慶寺は、海会寺の一院として開創された。 天正年間、織田信長・羽柴秀吉による紀州攻めで観音堂以外の全山を焼失した。 1600年代、豊臣秀頼によって移転し、岸和田藩主岡部氏の祈願寺として栄えた。
浄土真宗本願寺勢力(一向宗)と織田信長による石山合戦が勃発。 石山合戦の終結後、鷺ノ森別院に織田勢が押し寄せた。 織田信孝は、泉州路を南進し、深日へ押し寄せた。 「織田勢の先鋒淡輪に到着」の報に、深日・多奈川では鐘や太鼓が鳴り渡り、村人総出の防御線となった。 当時、この付近に陣を張って織田勢を待ち受けて、攻め寄せてきた。 一同家の釜土から持ち出してきた灰が西風に乗って、敵方めがけてまき散らし、手籠に入れた小石を投げつける。 飛道具を持たない村人たちのゲリラ戦法に、織田勢は前進できず、鉄砲をうちかける。 この時、本能寺の変にて、明智光秀による織田信長の死が伝えられ、本隊から制止され、終結した。
南北朝時代、楠木氏一族により築城。 地名の由来は、室町時代後期、根来寺の僧兵の勢力が入り、この地に葬られた大河将盤の墓にちなみ、村名を大河塚と呼んだ。 織田信長により、根来衆が敗退し、村人が自衛の為、久宝寺顕証寺に依頼。 根来衆の大ケ塚道場善念寺を顕証寺の通寺としたことにはじまる。 江戸時代は幕府領に、その後、京都所司代牧野親成領、山城淀藩領、下総佐倉藩領、常陸笠間藩領等へと変遷し、幕末を迎えた。
通称、水分神社、水分大明神、上水分社とも称する。 祭神は、天御中主神、天水分神、罔象女神、国水分神、瀬織津姫神を祀る。 紀元前92年、諸国が飢饉となったとき、各地に溜池や溝を作ることが勧められた。 このときに金剛葛城の山麓に水分神が祀られたのに始まる。 南北朝時代、兵火により荒廃。 楠木正成が、現在地に本殿、拝殿、鐘楼などを再建し遷座した。 織田信長軍の河内国攻略の際、社領を没収され一時衰退。 豊臣秀吉が社領を寄進し、復旧した。 摂社の南木神社では、祭神、楠木正成公(大楠公)を祀る。 本殿は、三殿で構成され、中殿は一間社春日造、左右両殿は二間社流造、各殿を渡廊で連結する「水分造」。