天満橋・八軒家浜と大大阪の礎
大阪天満橋・八軒家浜と大大阪の礎
まいどまいど! 日本で初めてとなる本格的な首都「難波宮」が現在の大阪市中央区で造営された。 以後、日本の政治、経済の中心地として栄え、首都機能が奈良県、京都府に遷都後も、副首都としての機能を果たしてきた。 太閤・豊臣秀吉によって大阪城が築城、再び全国から注目を集めることとなりまんねん。 江戸時代の大阪は天下の台所として栄え、全国から物資が運び込まれ、経済が活発となりました。 市内中心部では町民によって川が掘削され、ぎょうさんの船が行き交うようになり、やがて交通の要衝に。 大阪のシンボルとして名高い大阪市中央区の道頓堀川もまた市民の力によって掘削されたんやね。 明治、大正、昭和前期にかけての大阪は、「大大阪(だいおおさか)」。 人口規模では、東京市を抜いて全国1位となり、世界でも6位に数えられるほどに経済が発展していた。 現在の大阪の礎を築いた面影をわてと一緒に散歩しまへんか。 京阪電車本線・中之島線のターミナル駅でおます天満橋駅を降りると目の前に大川。 中之島を眺めつつ、訪れるは行列のできるベーカリー屋さん。 美味しいパン・サンドイッチが並んでいると人気でんねん。
2008年、大阪市による「往時の八軒家浜のにぎわいを水都大阪の再生の拠点とするため」として、八軒家浜船着場が開設。 2009年、観光船案内所、情報発信スペース、レストランから構成される「川の駅はちけんや」が開業。 このほか、大阪水上バス、遊覧観光船、屋形船が発着。
2008年、大阪市による「往時の八軒家浜のにぎわいを水都大阪の再生の拠点とするため」として、八軒家浜船着場が開設。 2009年、観光船案内所、情報発信スペース、レストランから構成される「川の駅はちけんや」が開業。
摂津国の旧淀川河口付近に存在した港湾。 別名、窪津(九品津)。 当地は上町台地の北端に位置するため、瀬戸内の島々や京の都とも水運の航路で結び、奈良時代の難波津や難波京の玄関口としての機能も果たしていた。 また四天王寺や住吉大社、熊野三山を目指す参詣客でにぎわいを見せ、熊野古道の起点となった。 江戸時代、船宿など8軒が軒を連ねていたことから「八軒家浜」と呼ばれた。 京と大坂を結ぶ「三十石船」が全盛期を迎えるなど淀川舟運の要衝として発展。 十返舎一九「東海道中膝栗毛」第八編では、舟を下りた弥次郎兵衛と北八が「大坂の八軒家」で上陸する場面も。 明治時代、鉄道が開通し、舟運は衰退。
摂津国の旧淀川河口付近に存在した港湾。 別名、窪津(九品津)。 当地は上町台地の北端に位置するため、瀬戸内の島々や京の都とも水運の航路で結び、奈良時代の難波津や難波京の玄関口としての機能も果たしていた。 また四天王寺や住吉大社、熊野三山を目指す参詣客でにぎわいを見せ、熊野古道の起点となった。
渡辺の由来
平安時代、嵯峨源氏の源綱(渡辺綱)は当地に住み、名字を「渡辺」とし、渡辺氏の起源、地名の由来ともなった。 渡辺綱の子孫は武士団「渡辺党」に発展し、全国に分散、瀬戸内海の水軍の棟梁となる。 北九州の松浦氏は支族にあたり、松浦氏を惣領とする松浦党。 付近には坐摩神社が鎮座するも移転、渡辺党も移転。
緑の一里塚
淀川北岸の皮革職人や下級神官らも移転したが被差別民として避けられたが木津村領内に渡辺村と浪速神社を鎮座。 皮革製造や大阪市内の刑罰・火消などに携わる。
八軒家船着場に設置された常夜灯は明治時代まで、八軒家浜に存在した常夜灯を復元。 初代の常夜灯は、1860年、町人や馬仲間、浜仲間が協力して建設。 1886年、八軒家船着場から生国魂神社に移設。 江戸時代に全盛期を迎えた三十石船も、鉄道の開通などでその役割を終え、八軒家船着場も衰退・ 二代目の常夜灯には、堺屋源兵衛が御東地方(東町奉行所の地方=租税徴収・出納などの事務係)に提出した口上書が刻まれている。
通称、OMMビル(オーエムエム)とも呼ばれる。 1969年、地上22階、地下4階として竣工した。 大阪マーチャンダイズ・マートビルがある場所で、天満橋筋を挟んだ向かいに京阪シティモールがある。 京阪シティモールの地下とは、地下鉄谷町線・天満橋駅や京阪・天満橋駅と地下通路で連絡している。 地下はレストラン街、郵便局などがある。 高層階には書店や展望レストランがある。
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大阪平野を一望できる屋上(スカイガーデン)では、10時から16時まで無料開放。 毎年3月から4月にかけて桜が見ごろを迎え、大川沿いにある毛馬桜ノ宮公園に咲く桜並木は絶景。
大阪平野を一望
大阪平野を一望できる屋上(スカイガーデン)では、10時から16時まで無料開放。
大阪平野を一望
大阪平野を一望できる屋上(スカイガーデン)では、10時から16時まで無料開放。
大阪平野を一望
大阪城公園の北部付近から大阪ビジネスパークから大阪府東部にかけてを一望。
1952年、大阪市阿倍野区の昭和町で音楽喫茶「ボストン」として創業したハンバーグ専門店の老舗。 店内には当時珍しかった米国製の真空管アンプ、大型スピーカーのステレオシステムがあったという。 天満橋店は、大阪市内を流れる大川(旧淀川)沿いに位置する京阪電車または地下鉄谷町線天満橋駅すぐにある大阪マーチャンダイズマートビルの地下2階。 ここには昔ながらのレストランが並び、多くの来場者でにぎわっている。
和風おろしハンバーグ
ボストンハンバーグをはじめ、オニオンハンバーグ、チーズ焼きハンバーグなどがあり、今回は和風おろしハンバーグを選んだ。 熱々の鉄板にはハンバーグ。 ご飯は大盛り無料で楽しめる。
パン、サンドイッチなどを製造販売する専門店。 2011年、開業。
パン、サンドイッチなど
あんぱんやカレーパン、コロッケサンド、メンチカツバーガー、チーズバーガー、カツサンドなど。
パン、サンドイッチなど
あんぱんやカレーパン、コロッケサンド、メンチカツバーガー、チーズバーガー、カツサンドなど。
パン、サンドイッチなど
あんぱんやカレーパン、コロッケサンド、メンチカツバーガー、チーズバーガー、カツサンドなど。
1608年、徳川家康により、銀貨鋳造所(銀座)が設置された。 兵庫県朝来市にある生野銀山や島根県大田市にある石見銀山などの産銀を受け取って、京都の銀座へ送る出店として明治維新まで継続したと言う。 また、銀の品位を決め、通貨を製造したと言う。 以後、京都へ移された。
江戸時代、料亭「三橋楼」が開業。 高台に位置し、天神橋、天満橋、難波橋または京橋、天満橋、天神橋の3つの橋を眺望することができた為、三橋楼と命名。 1864年、新選組の近藤勇による献金依頼文書を、加賀屋徳兵衛が三橋楼に出向いて受け取っている。 大久保利通が明治天皇に謁見したことを祝う為、小松帯刀、木場伝内、本田親雄、税所篤を招き、祝宴をあげる。 井上馨、伊藤博文の働きかけにより、大久保利通、木戸孝允、板垣退助らによる大阪会議が行われた。 木戸孝允氏は、囲碁会を開催。 大久保利通、五代友厚、税所篤(堺県知事)、内海忠勝(大阪府参事)、渡邊昇(大阪府知事)、伊藤博文らが参加。
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楠木正成の子正行がこの渡辺の地で戦ったとき大勝したが、そのとき、川に落ちた敵兵を救い、衣服と、薬を与えたと伝える。 1347年、瓜生野の戦いで、山名時氏、細川顕氏を打ち破った。 逃げる敵をこの川に追い詰めて、500人以上の敵兵が川に落ち流された。 楠木正行は、部下に命じ、これらの兵士を救って衣服や薬を与え、京へ帰したと言う。 1940年、石碑を建立。
幕府直轄地の大坂では、老中支配の大坂町奉行が置かれた。 維新後、奉行所には大阪府庁が置かれた。 府庁は移転し、跡地は大阪博物場(動物園・美術館・図書館)でにぎわった。 1619年、江戸幕府は大阪を直轄地とした。 大阪町奉行は、老中支配であった。 西日本を大阪町奉行の管轄とした。 両町奉行所が全焼し、一時、難波別院(南御堂)に移ったが、東町奉行所は旧地に再建された。 西町奉行所は、本町へ移転した。 1837年、大塩の乱が大塩平八郎により勃発した。
大阪府大阪市中央区にある大手前学園前に設置された石碑。 偕行社跡は大日本帝国陸軍元将校・士官候補生・将校生徒・軍属高等官および、陸上自衛隊・航空自衛隊元幹部の親睦組織。 帝国陸軍の将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立され、旧陸軍将校・士官候補生(陸軍士官学校と陸軍航空士官学校)・将校生徒(陸軍予科士官学校や陸軍幼年学校)・軍属高等官(将校待遇の陸軍軍属たる文官)、陸上自衛隊・航空自衛隊元幹部自衛官といった親睦・互助・学術研究組織として運用。 会名「偕行」の由来は詩経秦風「無衣」の、「王于興師 修我甲兵 与子偕行」。
偕行社跡
同節は「帝王が軍を発したならば、私は鎧と武器を整え、貴方と偕に戦いに行こう」、つまり「共に行く」「共に入軍する」の意。大手前大学は大手前学園が運営する私立大学で1946年、兵庫県西宮市に本部を置く。 1946年、神戸又新日報を経て大日本帝国陸軍の情報将校として中部軍報道部に所属していた藤井健造が、学園の前身である大手前文化学院を創設。
1870年、本木昌造氏が設計し、創設させた活版所で、当時の面影はない。 幕末、本木昌造氏は、長崎のオランダ語の通訳だった。 職業柄、主に洋書を使用していたが、木版印刷の研究を始めた。 1851年、日本で初めて、鉛の流し込みによる活字の鋳造に成功した。 その後、大阪初の鉄橋だった高麗橋の架橋にも加わった。
舎密(せいみ)は、オランダ語の化学を指すシューミが語源である。 1866年、オランダ人の化学者だったハラタマ博士は、5年間、日本に滞在した。 1869年、日本初の本格的な近代科学の講義と実験による学校「舎密局」を開設した。 ハラタマ博士は、化学を講義し、オランダから運んできた試薬と実験器具を用いて化学実験や化学分析を教えたと言う。
ハラタマ博士
1866年、オランダ人の化学者だったハラタマ博士は、5年間、日本に滞在した。 1869年、日本初の本格的な近代科学の講義と実験による学校「舎密局」を開設した。 舎密(せいみ)は、オランダ語の化学を指すシューミが語源である。 ハラタマ博士は、化学を講義し、オランダから運んできた試薬と実験器具を用いて化学実験や化学分析を教えたと言う。
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大阪を中心とする関西経済の中心地。
大阪経済界3人の偉人
写真より、左から五代友厚、土居通夫、稲畑勝太郎である。 五代友厚をはじめとする3人は、大阪商工会議所に尽力した人物とされ、今でも銅像として設置されている。 五代友厚は、現在の大阪商工会議所の前身である大阪商法会議所を設立した。 設立後、初代会頭を務めた。 その後、土居通夫は7代を稲畑勝太郎は10代の会頭をそれぞれ務め、関西や西日本を含めた経済の中心を担っている。
大阪府立貿易専門学校とは、大阪府立の専修学校である。 2年制の専門課程が設置され、貿易実務や国際ビジネスについて学ぶ目的だった。 略称、OCFTとも言う。 1948年、大阪市中央区本町橋に1年制の各種学校として大阪高等貿易講習所を創立。 1967年、2年制の専修学校へと改編された。 当時、日本で唯一の公立の貿易実務分野の専修学校であったと言う。 2004年、廃校となった。
1724年に築かれた奉行所である。 大阪は幕府直轄地として将軍直属の大阪城代が置かれていた。 1619年、当時は、大阪城京橋口門の外にあった。 1724年、移転した。
2006年、地上14階、地下2階建のホテルとして開館した。 大浴場や露天風呂は天然温泉である。 源泉名は、ひょうたんゆ。 泉質は、ナトリウム、塩化物・炭酸水素塩温泉。 効能として、神経痛や筋肉痛、疲労回復など。
宿泊施設のシティプラザ大阪の最上階にあたる14階にあり、窓からは大阪平野を一望することができる。 窓からは都会らしい夜景を楽しみながら、酒を片手にお食事をいただく。
燻製三種盛り
燻製三種盛り、シーザーサラダ~半熟玉子添え、串カツ盛り合わせ、お造り三種盛り、ナンで食べるほうれん草カレー、小蛸とキノコのアヒージョ、チキンステーキ~バジルソースなどを味わった贅沢なひと時。
シーザーサラダ~半熟玉子添え
燻製三種盛り、シーザーサラダ~半熟玉子添え、串カツ盛り合わせ、お造り三種盛り、ナンで食べるほうれん草カレー、小蛸とキノコのアヒージョ、チキンステーキ~バジルソースなどを味わった贅沢なひと時。
串カツ盛り合わせ
燻製三種盛り、シーザーサラダ~半熟玉子添え、串カツ盛り合わせ、お造り三種盛り、ナンで食べるほうれん草カレー、小蛸とキノコのアヒージョ、チキンステーキ~バジルソースなどを味わった贅沢なひと時。
お造り三種盛り
燻製三種盛り、シーザーサラダ~半熟玉子添え、串カツ盛り合わせ、お造り三種盛り、ナンで食べるほうれん草カレー、小蛸とキノコのアヒージョ、チキンステーキ~バジルソースなどを味わった贅沢なひと時。
ナンで食べるほうれん草カレー
燻製三種盛り、シーザーサラダ~半熟玉子添え、串カツ盛り合わせ、お造り三種盛り、ナンで食べるほうれん草カレー、小蛸とキノコのアヒージョ、チキンステーキ~バジルソースなどを味わった贅沢なひと時。
小蛸とキノコのアヒージョ
燻製三種盛り、シーザーサラダ~半熟玉子添え、串カツ盛り合わせ、お造り三種盛り、ナンで食べるほうれん草カレー、小蛸とキノコのアヒージョ、チキンステーキ~バジルソースなどを味わった贅沢なひと時。
チキンステーキ~バジルソース
燻製三種盛り、シーザーサラダ~半熟玉子添え、串カツ盛り合わせ、お造り三種盛り、ナンで食べるほうれん草カレー、小蛸とキノコのアヒージョ、チキンステーキ~バジルソースなどを味わった贅沢なひと時。
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宿泊施設のシティプラザ大阪の1階では「日本料理 大江」があり、本格的な日本料理を味わうことができる。
広々とした庭
窓からは緑豊かな景色と噴水、そして川があり、都内の中のオアシスを演出。
広々とした庭
窓からは緑豊かな景色と噴水、そして川があり、都内の中のオアシスを演出。
日本料理など
朝はバイキング形式となっていて、日本料理以外も楽しむことができる。