学生の街・早稲田
東京学生の街・早稲田
まいどまいど! 東京を代表する学生の街といえば、新宿区にある早稲田駅界隈。 ここには名門の早稲田大学があり、ぎょうさんの学生さんの姿が目立つ。 また、早稲田大学では、これまでに数多くの著名人を輩出し、注目を集めている大学の一つとしても知られてまんな。 また、大学のすぐそばにおます大隈公園は佐々木可村によって和洋折衷式の庭園として整備され、大隈重信はんとゆかりも。 現在は、自然豊かな環境が特徴で、四季折々の景色を堪能でき、ぎょうさんの生物が生息してまんねん。 それらを観察して、普段の日常から非日常を楽しんでみるのもオススメでんな。
江戸時代、蘭学校の北門義塾(柳田藤吉の創設)を閉校後、大隈重信が東京専門学校を設立。 大隈重信は政治家として知られ、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計しているため、政界・財界に多くの逸材を輩出している。 英国の教育専門誌「タイムズ・ハイヤー・エデュケーション」の日本版ランキングでは、私大1位に認定された(2017年)。 「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を理念として制定。
早稲田大学建築科の教員らが中心に設計したチューダー・ゴシック様式の講堂「早稲田大学21号館」。 シンボルは7階建の時計塔。 外壁のタイルは信楽風の手作りの焼き物、約19万枚を使用。 大隈重信が提唱した「人生125歳説」にちなんだ125尺(約37.8m)の高さ。 外観には1923年に竣工したラグナル・エストベリのストックホルム市庁舎をイメージ。 塔上の鐘は、米国ボルティモアのマクレエン社のもの。 大小4つの鐘で演奏させる方法は国内初(ウェストミンスター宮殿と同類)。 内部には宇宙を表現した楕円形の採光窓。 太陽と月と9つの星をあしらった太陽系を表現。 講堂の内外では「世界の融和」を象徴。
明治時代、佐々木可村によって和洋折衷式の庭園として整備された。 かつては大隈重信の大隈邸が築かれていたといい、旧来からあったものを改造したという。 後に大隈氏が設立した早稲田大学に寄附され、大隈会館の庭園として活用された。
2010年、早大南門通りにオープン。 名物は、「幸早稲田おにぎり」。 店主は商社でコンビニ事業に携わっていたとき、「もっと温かみのある家庭的な手作りおにぎりで、たくさんの人を幸せにしたい」という想いから、「幸早稲田(しあわせだ)おにぎり」が生まれたとか。
1062年、源義家が奥州からの凱旋の途中、当地に兜と太刀を納め、八幡神を祀った。 的場が造られ、この八幡宮を守護神とした。 宮守の庵を造るため、社僧良晶が南側の山裾を切り開くと横穴を発見。 中からは、金銅の御神像が現れ、掘った人は「芽出度い」と大喜びし、穴八幡宮と呼ばれるようになった。 3代将軍徳川家光は、穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。 8代将軍徳川吉宗は、世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納。 蟲封じの祈祷では、皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っているという。 冬至の「一陽来復」のお守りでも知られ、毎年冬至の日から翌年節分の日まで多くの参拝客が訪れる。
本尊は聖観世音菩薩。 1641年、穴八幡宮(高田八幡)の別当寺として創建。 「放生会」、虫封じのご利益があるとか。 創建当時、境内に放生池が存在していたが、埋め立てられた。
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江戸時代、尾張藩徳川家の下屋敷があった。 2代藩主徳川光友により、回遊式庭園「戸山荘(戸山山荘)」として整備、箱根山に見立てた築山の玉円峰(箱根山)、東海道の小田原宿を模した建物など二十五景がしつらえられた。 11代将軍徳川家斉ゆかりの場所として知られ、水戸藩徳川家の小石川上屋敷と並ぶ有数の大名庭園であった。 明治維新後、明治政府によって陸軍戸山学校、陸軍軍医学校が開校、陸軍の練兵場などに利用されたが、戦後に廃止。 1949年、戸山ハイツを建設、戸山公園を開園。 公園には、標高44.6mの箱根山がある。 毎年10月、体育の日には、穴八幡宮の伝統行事で新宿区指定無形民俗文化財指定の流鏑馬が開催。