京都・山科で、まち歩き
京都京都・山科で、まち歩き
まいどまいど! 京都市内でも東部に位置する山科区にはJR西日本東海道線、湖西線、琵琶湖線山科駅だけでなく、京阪電車京津線、京都市営地下鉄東西線の山科駅が集まるターミナル駅。 駅前にはぎょうさんの商業施設が立ち並び、にぎやかな繁華街となってまんねん。 また、付近には昔ながらの雰囲気が漂う商店街もあり、歩いてみるだけでも十分楽しめまっせ。 ほんでまた、区内を三条街道が走り抜け、歴史的人物ゆかりの地でもありまんねん。 果たしてどのような町なのか、実際に歩いてみることにしまひょ!
複合型商業施設。
2018年、複合型商業施設としてリニューアルオープン。 コンセプトは、「暮らしに便利」「わたしのお気に入り」。 施設内にはレストランをはじめ、居酒屋、カフェ、ドラッグストアなどがある。
天智天皇 中臣の里・山科
山科は古代より政権との結びつきが強く669年には中臣鎌足(後の藤原鎌足)によって精舎(山階寺)を建立。 豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと変えたきっかけの一つである大化の改新の中心人物としても知られ、中大兄皇子(天智天皇)とともに活躍。 日本の歴史のおける最大氏族「藤原氏」の始祖。
天智天皇 中臣の里・山科
天智天皇は626年から672年にかけて活躍した第38代天皇。 た。 645年、大阪・難波長柄豊碕宮を造営。 654年、奈良・飛鳥板蓋宮を造営。 600年代、大阪を海の玄関口として唐に遣唐使を派遣させ、大陸など海外の文化を積極的に取り入れた。 660年、漏刻(水時計)を作成し、大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始。 667年、滋賀・近江大津宮を造営。
当地を東西に貫く街道はかつて東海道(三条街道)とも呼ばれ、古代から都と東国を結ぶ日本の大動脈として機能した。 1600年に関ヶ原の戦いが勃発し、勝利した徳川家康は江戸幕府を開いた。 このとき、支配確立の一策として、「五街道」など道路制度の改革と整備に乗り出した。 その五街道の一つが東海道である。 起点は江戸の日本橋、終点は京都三条大橋に置き、その間に宿場が五十三箇所あった。 このことから、「東海道五十三次」といわれ、葛飾北斎や歌川(安藤)広重の浮世絵や、十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などにも取り上げられた。
三条街道
五街道では幕末まで車の往来が禁止であったが、都に近い大津や京都間だけは例外として、人馬が通る道と荷物を積んだ牛車が通る車道を分け、車道には雨後のぬかるみに車輪が取られないように石「車石」が敷き並べられた。 かつて、周辺には茶店「奴茶屋」があり有名であったが閉店した。 日ノ岡峠の麓には、東海道では市内唯一の一里塚が設けられていた。
スーパーマーケット、レストラン、ファッションなどが揃う複合型商業施設。
中華料理「担々麺」の専門店。 店内には、カウンター席とテーブル席がある。 メニューは担々麺だけでなく冷やし担々麺、チーズ担々麺、あんかけ担々麺など。 ここでの担担麺は、麺の硬さ(柔らかい・普通・硬い)、スープの味(甘い・普通・濃い)、辛さ(普通から・最も辛い)などを選ぶことができる。
担々麺
普通(辛い)担々麺と唐揚。 平日限定でAセットとBセットがあり、お得。
唐揚
普通(辛い)担々麺と唐揚。 平日限定でAセットとBセットがあり、お得。
京都府京都市の山科区小野御所ノ内町と山科区竹鼻竹ノ街道町とを結ぶ一般府道「京都府道117号小野山科停車場線」の一部に属する。 別名、醍醐街道とも呼ばれ、京都外環状線の一部とも。 商店街では飲食店や居酒屋、雑貨店などが軒を連ねている。 また、付近は明治天皇御遺跡がある。 明治時代、毘沙門堂領地内で東海道沿いにあった茶店奴茶屋に駐輦。 奴茶屋は、弓の達人として知られた片岡丑兵衛が街道に出没した盗賊を討ち取り、1447年に茶店を建てて旅人を送迎したことにはじまるという。 1994年、茶店、宿場、本陣として利用されたが閉店。
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三条通沿いの神明山にある神社。 「京の伊勢」とも称される。 祭神は、天照大神、多紀理毘賣命、市寸島比賣命、多岐都比賣命、天津彦火瓊々杵尊、天之御中主神。 第23代顕宗天皇の治世、勅願により筑紫日向の高千穂の峯の神蹟より神霊を移して創建。 応仁の乱が勃発し、社殿を焼失。 江戸時代、篤志家によって旧社地に再建。