【大河ドラマ「西郷どん」】でも話題!明治維新の中心、薩摩藩の秘密を知りたい!
鹿児島【大河ドラマ「西郷どん」】でも話題!明治維新の中心、薩摩藩の秘密を知りたい!
薩摩藩は幕末の雄藩で、明治維新の主人公です。しかし、その中核メンバーは加治屋町といわれる極々限られた地域の出身者が中心となっています。今でいえば、あの町内の出身者が日本を動かしているよねって感覚な訳です。ここには何かの秘密がありそうです。またそんな町内会の内輪もめの延長での西南戦争の舞台にもなっています。 同時に海外の情報に敏感で猛烈な危機感から近代化を進めて行く日本の南端の藩がどのような意識でいたのかを感じることも出来ます。 とにかく幕末→明治期の歴史盛りだくさんの鹿児島を満喫してください。
加治屋町にあるふるさと館ですが、この加治屋町ってところはすごい場所です。というのも西郷隆盛兄弟、大久保利通はもちろん、大山巌、東郷平八郎と数多くの偉人を生み出しています。しかし、それには理由があるというのがこのふるさと館に行くとわかります。秘密は薩摩の「御中教育」そしてそれを踏まえた環境です。是非行って考えさせられてみてください。
幼少期は下加治屋町の郷中で西郷らと教育を受けています。まさにご近所。反征韓論、西南戦争などでヒーロー西郷と対立したこともあって鹿児島での人気はイマイチ。そんな大久保のこの銅像は鹿児島で唯一の大久保の輝かしいものとして存在感を放っています。
道を外す
鹿児島では西郷を殺したとして道を外した男と呼ばれていることから銅像の「通」も少しズレてる!日本人的には立派な業績だけに鹿児島、薩摩の気持ちを感じてください。
大久保利通
明治維新の元勲で、西郷、木戸と並び立つ英雄。幕末の薩摩は色々ポジションを取るのですが、大久保は岩倉具視と絡んで公武合体を唱え、長州征伐に対しても派兵反対の姿勢だったりしました。一橋慶喜に四賢候会議を否定されて武力討伐にまわり、倒幕の中心人物に。しかし、実際の実力は維新後の治政において一番発揮されました。海外を見て力の差を埋めるべく近代国家としての明治政府の骨格を作ったのはまさに大久保でした。
清水坂公園
海外の知識を得た大久保は、武士の感覚が時代遅れであることを感じ、近代国家を目指す上で征韓論に反対します。結果西南戦争などを経て士族の反感を買った大久保は東京紀尾井町の清水谷で暗殺されます。そんなこともあって西郷人気の鹿児島の地元では不評。墓地も青山霊園にあったりします。
西郷の手紙
幼なじみの西郷に対して大久保は西南戦争で死に追いやることになるのですが、常に生前の西郷から送られた手紙を入れた袋を持ち歩き、暗殺された時にも西郷からの手紙を2通懐に入れていたといいます。なお、事件後は大山巌が血染めになったそれを所持していたそうです。幼なじみの極みです。
言わずと知れた人気者ヒーロー西郷の生家跡です。加治屋町のど真ん中にあります。
西郷隆盛
薩摩藩の下級藩士の家の長男として生まれ、幕末の薩摩藩のヒーロー。そして維新後は武士士族の象徴的な存在となり征韓論の象徴となり西南戦争という内戦で戦死するに至ります。エピーソードは本当に色々ありますが、人間力がすごかったようですね。 あとやはりデカかったらしく180cm100キロくらいの感じだったようです。坂本龍馬で174-5cmくらいなのでデカいですね、やはり。
坂本龍馬曰く
西郷のことを「鐘のような人。大きくうてば大きく響き、小さくうてば小さく響く」と表現したそうです。
明治の代表的な内戦といえる西南戦争ですが、西郷を中心とする薩軍と政府軍の戦いは薩軍の戦術的破綻もあって薩軍がどんどん南下し追いつめられて行くという流れになります。そんな中でも熊本城→宮崎県延岡という敗走の流れの後、最後の拠点となったのがこの城山でした。
明治十年戦役薩軍本営跡
城山ドン広場の奥にある西南戦争の本陣跡の碑です。ちなみに城山ドン広場という名前は、昔市街地に時を知らせるためにここから大砲を撃っていたことからついたそうです。
政府軍城山総攻撃が始まるころに西郷が立てこもっていたのがこの洞窟です。城山に立てこもる薩軍兵は、わずか300。これを囲む政府軍は40000。死を決した西郷は、夜明けを待って、5日間過ごしたこの洞窟を出て岩崎谷を降りて行ったそうです。桐野利秋、別府晋介、村田新八、池上四郎といった私学校の幹部たちも一緒だったそうです。その後流れ弾が西郷の腰に命中し、別府の介錯をあおいで自決し49歳の生涯に幕を閉じたそうです。 西郷らが鹿児島に入ったのが9月頭、総攻撃まで3週間以上あり、最後の5日がこの洞窟です。そんなことを考えると当時の洞窟を出るという判断の状況を感じ取ることが出来ます。
この地にある解説には「ズドン、ズドン!2発の銃弾が西郷隆盛の腰の大腿部を撃ち抜きました。城山洞窟を出てわずか300m、650歩でついに途は閉ざされたのです。「晋どん、もうここらでよか」東を向き皇居を伏し拝む西郷に、別府晋介の介錯の太刀が振り下ろされました。」とあります。その最後の場所がこちらです。
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「敬天愛人」天を敬い、人を愛し続けるというその言葉を西郷は座右の銘としていました。自分のことを慕ってくる人がいるかぎり、その人たちを愛し尽くして死ぬなら本望という感じで西南戦争に突入して行くその姿がこの顕彰館、南洲墓地からはにじみ出てきます。
西郷生涯ジオラマ
西郷隆盛の生涯をジオラマで展示しています。写真は西南戦争の時のものです。
桜島を見下ろす丘にある西郷隆盛の墓です。西郷だけでなく、西南戦争で共にした桐野利秋、村田新八、篠原国幹、別府晋介ら、西南戦争で西郷軍として戦い命を落としたものたちの墓などもあります。
鹿児島市出身の彫刻家で渋谷の「忠犬ハチ公」の制作者・安藤照が8年をかけ製作したそうです。1937年5月23日に完成した銅像です。
政変で下野した西郷隆盛は、鹿児島の士族たちのため、私学校を創設して不満士族のための未来を開こうとしました。 結果この私学校が西郷を最後まで支えますが、西南戦争の際この私学校の石垣に多くの銃弾が打ち込まれるという結果になります。石垣を是非みて激戦を感じてください。
銃弾跡
激戦を感じることが出来ます。
鹿児島城ともいわれ日本100名城にも選ばれている城です。関ヶ原の戦いで敗れた西軍に属していた島津家が家康の薩摩征伐を恐れた築城をはじめた城です。海が近いため防衛上の問題を指摘されたりもし、実際に薩英戦争のときは標的にされたりもしたのですが、江戸時代の薩摩藩の居城として利用されました。城の出丸跡に西郷隆盛の私学校もあります。
配置
城山を背後に抱えた位置取りとなっていますが、海からの攻撃に弱いという弱点を持っています。
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薩摩の島津家は鎌倉以来の武家の名門であり、脈々と続く源氏家系なのですが、幕末にあれほどの活躍をするまで長きにわたり九州の南端で権勢を振るいます。特に関ヶ原の西軍として負け側に建ちながら政治的な立ち振る舞いもうまく毛利家のような大きな傷(中国8カ国から2カ国の削減)は免れました。 そして、九州の南端という地政学的な良さも手伝い、南方との密貿易などで国力を高め独自の存在感を発揮しづけていました。そんなこともあって幕末に島津斉彬という存在感ある名君にも恵まれ、明治政府の中核に座る下地ができました。 そんな島津斉彬を祭神として祀るのがこの照国神社です。
島津斉彬公像
幕末の薩摩の良いポジションは実はこの斉彬の治政によるものともいえます。幕末の四賢候の一人です。
島津斉彬
幕末の幕府にとっての四賢候の一人です。実際に倒幕活動時期の藩主は久光ですが、薩摩藩が雄藩として威を発揮する前提はこの人がいたからとも言われています。大久保や西郷を重用したのもこの人です。
篤姫
大河ドラマとなった篤姫、江戸幕府第13代将軍徳川家定御台所の天璋院は、従兄であるこの島津斉彬の養女でもあります。
薩摩飛脚
幕府も薩摩藩の動向は常に気にしていたようで、スパイを送り込むことなどを企図していたようですが、薩摩藩が国情の漏れるのを恐れて領内に入った他国の者の出国を許さなかったことなどから、行ったきり帰ってこないことを表す「薩摩飛脚」という言葉も生まれています。そんな部分も薩摩の強さのあらわれですね。方言の強さもあったかもしれませんけど。
暗殺?
名君島津斉彬は最後は病気で急死するのですが、父・斉興や異母弟・久光一派との藩内対立があったことから毒殺されたとの説も有力です。私が大好きなみなもと太郎氏の「風雲児たち」ではコレラの流行の終焉後のことだったことからこの暗殺説が採用されていました!
島津の菩提寺福昌寺にある島津斉彬公の墓。島津の歴代殿様が並び眠っています。少し離れて弟久光の墓も。斉彬は京都への上洛のために軍事演習を天保山陣屋で行なったのち8日で亡くなられたといいます。無念の極みであったでしょう。 島津が幕末の雄藩となったのはこの斉彬故でしょう。
島津斉彬公の陣屋跡に碑が残されています。天保山調練場よばれたところで、洋式よ軍事訓練が行われたところで、斉彬の最期に家定将軍世継問題に抗議し、上洛のための訓練を行ったのもこちら。ここで倒れて亡くなられたことになります。
鹿児島市内からは離れますが、薩摩藩の実力を支えた密貿易の象徴として、薩摩藩の密貿易にも使われていた屋敷跡が南さつま市に残されています。屋敷内には隠密に貿易を行うための構造上の様々な工夫が色々あります。忍者屋敷のような屋敷内を見学できたり、民宿として宿泊もできるようです。
若くして薩摩藩の家老となって活躍した小松帯刀の銅像です。実務面での能力の高さを表すような銅像になっています。
小松帯刀
28歳で若くして薩摩藩の家老となって活躍した小松館脇ですが、就任直後の薩英戦争での指揮はもちろん、講和のきりもりなどを担当し実務面の強さを発揮しています。薩英戦争は調べると薩摩の勇猛さ、交渉力などを知ることが出来、今の日本に必要な点を学べます。同時に薩摩は攘夷の無謀さなどを学びその後、薩長同盟からの倒幕活動へと続いていい来ますが、勝海舟、坂本龍馬と懇意で反論をまとめていったのはこの小松帯刀です。
坂本龍馬の新婚旅行
坂本龍馬の新婚旅行が鹿児島・霧島で、日本最初の新婚旅行と言われているのは有名ですが、これを企画したのもこの小松帯刀です。
幻の総理大臣
帯刀は病気のために36歳で亡くなりますが、あまりに早い死とあまりに優れた能力を惜しいまれ「幻の総理大臣」と言われています。暗殺された大久保、小松帯刀がいれば確かに初代総理大臣は伊藤博文ではなかったかも?生き残るということの大切さを感じます。笑 ちなみに小松の治療はオランダ人ボードウィン医師が担当しましたが、ボードウィン医師は上野公園創設の功労者であり胃腸薬を日本に伝えた「太田胃散」の父です。
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幕末欧州留学と言えば長州ファイブも有名ですが、密貿易藩の長州も当然若い学生を欧州留学させています。もちろん徳川幕府としては死罪も辞さない国禁違反なのですが、そういうのを平気で破るからこその倒幕藩なのでしょうね。
英国留学
国禁に違反するので、表向きの辞令は「甑島・大島周辺の調査」で、藩主から変名を与えられての渡航です。合計19人が留学していますが、数ヶ月掛けての船旅での欧州留学は、今なら月に行くくらいの話しなのかもしれないなと考えるとすごいことですね。
薩摩藩の英国留学を上申し幕末に薩摩の近代化、西洋化を進言。そして当然自らも英国に留学した五代友厚の銅像です。 NHK連続テレビ小説「朝が来た」のモデルとなって注目を集めました。維新後実業家にならなければ五代が初代総理大臣だったかもという声もあった偉人です。
五代友厚
薩英戦争で捕虜として捕まったことをきっかけにトマス・グラバーと近づくことで西洋の先行性を認識します。結果、薩摩藩に対して「これからは海外に留学し、西洋の技術を習得してこないと世界の大勢に遅れ、国の発展に役立ちません。」と上申書を書き、その中に留学の必要性など具体的な案を含めていたといいます。これがきっかけとなって留学が実現するわけです。すごい!
大阪商工会議所初代会頭
明治期は大阪で実業家としての道を歩みます。もちろんこの時期の実業家らしく明治14年(1881)官営物払い下げ事件に絡み政商的な動きもしますが、大阪経済に大きな功績を残しました。大阪商工会議所初代会頭で、大阪取引所の前にも銅像があります。
鹿児島市内からは離れますが、羽島には留学生達が留学準備をして渡航に備えた場所に記念館が建っています。
薩摩のすごさの秘密は、密貿易にあるといいます。薩摩が南方や大陸との密貿易を繰り返します。その後薩英戦争を起こすのですが、その講和を通じてイギリスとも留学、密貿易を行い、製鉄、造船など独自の技術革新を入手します。その結果、名君島津斉彬は製鉄・造船・紡績事業に力を注ぎ、大砲製造から洋式帆船の建造、武器弾薬から食品製造、ガス灯の実験など幅広い事業を展開した場所がこちらです。これが日本最初の洋式産業群です。
当時の姿
アヘン戦争に代表される西欧からの植民地支配の情報が日本にも伝えられてきますが、琉球を支配下においていた薩摩藩にはいち早くこれが伝えられます。薩英戦争の影響も相まって、近代産業への注力の重要性を薩摩が一番感じて行動した象徴がこちらです。
当時の施設跡
手前が当時の炉床跡です。奥にはレプリカの大砲があります。
世界遺産
結果西欧列強による植民地支配受けなかった希少な国。急速な近代化を成し遂げた世界的な奇跡の象徴という意味で「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産にも登録されています。
仙厳園
名勝ともいえる磯庭園もあります。
坂本龍馬は薩長同盟の成立2日後に起きた寺田屋での襲撃で怪我を負っいました。この療養をかねて西郷や小松帯刀らのすすめもあり鹿児島から霧島に旅行に来ています。妻おりょうを連れての旅だったので日本初の新婚旅行とも言われていてその行程の場所には色々見所があるのですが(https://haveagood.holiday/plans/2282)、出発の地の鹿児島天保山に碑が建っています。
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