
京都の中心地・新撰組の足跡
京都京都の中心地・新撰組の足跡
まいどまいど! 今回は京都の中心地で、京都を代表する繁華街の一つ新京極を歩いていきまひょ。 ここには、にぎやかな商店街が形成され、その一角に錦天満宮。 錦天満宮は学問の神様として全国的に信仰を集める菅原道真公ゆかりの地として知られ、全国的にも知られてはりまんな。 ほんでまた、三条や寺町へと商店街が続き、 昼間ともなると、ぎょうさんの観光客でにぎわい、押すな押すなの大盛況ともなってまんねん。 また、一部の学校では修学旅行の観光ルートともなっていて、学生服姿の観光客の姿も。 さらに、近くには、ぎょうさんの博物館があり、京都を知る上での貴重な資料を保存、展示している他、織田信長と明智光秀ゆかりの本能寺、聖徳太子や小野妹子ゆかりの六角堂があるなど、歴史上の人物が続々と登場。 そんな続々でゾクゾクの京の街を皆さんも観光してみまへんか? どなたでも楽しめる甘味処もご紹介! ぜひ、休日に京都を観光しまひょ!
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別名、池田屋事変、池田屋騒動、洛陽動乱(近藤勇)など。 1864年、旅館の池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃。 会津藩と薩摩藩による八月十八日の政変で長州藩は失脚、朝廷では公武合体派が主流となっていた。 尊王攘夷派が勢力挽回を目論み、京都守護職は新選組と組んで警備や捜索を指示。 新選組諸士調役兼監察らは、炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)を突き止め、会津藩に報告。 捜索によって、武器や長州藩との書簡等が発見。 古高を捕らえた新選組は、土方歳三の拷問により古高を自白させた。
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現在は居酒屋
長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派が、逮捕された古高奪回のための襲撃計画について協議する会合を突き止めた。 近藤隊は池田屋で謀議中の尊攘派志士を発見し、数名で突入。 襲撃を受けた宮部鼎蔵ら志士達は応戦しつつ、現場からの脱出を図ったが、新選組は討ち取りと捕縛の戦果を上げた。 桂小五郎(木戸孝允)は、難を逃れた。 事件後、池田屋主人の池田屋惣兵衛が捕縛され、7ヶ月間の営業停止後、廃業。
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京都市内を流れる鴨川に架かる三条大橋は三条通の橋。 豊臣秀吉の命により、五条大橋と共に増田長盛を奉行として石柱の橋に改修。 江戸時代、五街道の一つ東海道に繋がる橋として、幕府直轄の公儀橋に位置付けられた。 徳川家康によって定められた東海道五十三次の西の起点となった。 撫で石は、撫でると縁起がいいとの言い伝えがある。 1917年、日本初の駅伝競走が、当地からスタートした記念碑「駅伝の碑」。 近隣の川岸は「三条河原」と呼ばれ、処刑や処刑後の晒し首が行われた。
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三条大橋擬宝珠刀の傷跡
旅館・池田屋に潜伏していた長州藩・土佐藩などの尊王攘夷派志士を、京都守護職配下の治安維持組織である新選組が襲撃した池田屋事件が勃発し、三条大橋擬宝珠刀の傷跡が現存する。
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高札場跡
江戸時代、三条大橋の西詰には藩や幕府の高札を立てた「高札場跡」。 土佐藩士8人が三条大橋西詰北の制札を引き抜こうとしたところ、京都の治安維持を行っていた新選組がこれを襲撃・捕縛した三条高札事件がある。
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法華宗本門流の大本山。 1415年、日隆により本応寺として創建したが破却され、河内三井(本厳寺)・尼崎(本興寺)へ移った。 1433年、再建して本能寺に改称。 題目の巷と呼ばれた。 1536年、天文法華の乱が勃発して焼失。 大阪・堺の顕本寺に避難したが帰洛し、伏見宮第5代邦高親王の子・日承上人が本能寺8世となった。 織田信長は日承に帰依し、上洛中の宿所とした。 1582年、明智光秀の率いる軍勢に包囲される本能寺の変により焼失、織田信長は自刃。 織田信孝は信長の元御屋敷を墓所とした。 1591年、現在地に移転。 天明の大火で焼失後、再建。 禁門の変(蛤御門の変)に伴い、焼失。 1928年、再建。
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京都府内でも最も古い歴史を持つ商店街の一つとして知られ、商店街内には創業300年以上とも言われている「ぬい針」で有名な「福井みすや針」、京扇子が揃う「大西京扇堂」などの老舗や数多くの店舗が軒を連ねている。
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創業400年を超える老舗を筆頭に、約60の店舗が軒を連ねている。 商店街やその周辺では本能寺の変の舞台となった本能寺、天性寺、送り鐘の矢田地蔵尊で知られる矢田寺があり、古くから参詣道としてのにぎわいも見せてきた。 また、寺町通り四条上ルは四条通りと寺町通りの交差点を北に入ったところで、桃山時代以来、繁華街として発展した。 四条通りは平安京の四条大路に該当し、中世以降、祇園祭など芸能の巷として有名であった。 寺町通りは、平安京の東、京極大路にあたり、南北を通貫していた。 中世には戦乱によって衰退したが、豊臣秀吉の京都大改造によって再生され、洛中に散在していた諸寺院が遷座し、寺町の名がつけられた。
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1872年、京都府参事槇村正直によって作られた通り。 かつて、広大な寺域を誇った時宗十二派の四条派の金蓮寺が寺域の切り売りをはじめ、以後、料亭・飲食店・商店・見世物小屋が建っていた。 寺町通(寺町京極)に集まる寺院の境内が、縁日の舞台として利用されるようになり、寺町通のすぐ東側に新京極通を建設。 明治時代、見世物小屋や芝居小屋が建ち並んだ。 ほぼ水平な商店街に坂があり、「たらたら坂」と呼ばれているが、その一方で京の不思議として語られることもあるとか。
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祭神は、天満天神(菅原道真)。 京の台所として知られる錦市場の東端に鎮座。 学業、商売繁盛の神様として信仰を集めている。 1003年、菅原道真の父・菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建。 その鎮守社として天満天神を祀って創建された。 目の前には、京の台所として平安時代より人気を集めている錦市場。 かつて京の都が日本の首都であったころ、京都御所に新鮮な食材を納めていたことが縁で、現在でも「ほんまもん(本物)」の新鮮な食材が揃う場所として、高い信頼を得てきた。
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ロボットかみしばい
菅原道真公のこと、錦天満宮のこと、そして京都の歴史などがわかりやすいロボット紙芝居。 人力ではなくすべて全自動で動作する。
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獅子舞
獅子舞が展示され、自動で動作する。
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京都の甘味処として主に女性の間で人気を集めている場所が 名物・黒豆御膳 黒豆茶庵 北尾 京の台所錦店。 1862年に創業したこのお店では、丹波の黒豆を使用した黒豆御前が人気で他にも黒豆を使用したソフトクリーム、ぜんざい、そして、実際に石臼を使用した自分だけのオリジナルきな粉をつくって食べることもできる。 石臼で挽くのもよし、あらかじめ準備されたきな粉で食べるもよし。
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黒豆みたらし団子とわらびもち
今回は食後のときにおすすめな黒豆みたらし団子とわらびもちをご紹介。 まずは、きな粉をつけずに食べて見る。 美味しい。 そして、きな粉をつけて食べる。 味の変化を楽しみながら、味わってみてはいかがでしょうか。
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1890年、建築。 かつて、1871年に創業した家辺時計店があった。 創業当時、店舗は和風で、屋根には時計塔を置いていたとか。
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1916年、旧不動貯金銀行京都支店として建設。 1階はレンガ造り、2・3階は木骨レンガ造り。 現在、雑貨店やカフェなどが入居する。 国の登録有形文化財に登録。
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1914年、旧日本生命京都支店として建設。 設計は、辰野金吾氏と片岡安氏による辰野片岡事務所。
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1988年、京都の歴史と文化の紹介を目的に、平安建都1200年記念事業の一環として開館。 1968年、平安博物館として設立された私立博物館が前身。 また、平安博物館の建物は重要文化財に指定された旧日本銀行京都支店。 2011年、「国民文化祭・京都2011」が開催され、全面リニューアルされた。 施設内では、江戸時代の京の町家の町並みが再現されている他、京の伝統工芸品・名産品の店舗がある。 特に「京の歴史」「京のまつり」「京の至宝と文化」という3つのゾーンに分け、平安時代から明治時代、大正時代までの歴史、祇園祭で登場する山鉾の豪華絢爛な縣装品など山鉾町に伝わる数々の名品などが紹介されている。
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2004年、万華鏡を専門に収集・展示しているミュージアムとして開館。 施設内では、オルゴール万華鏡、ジオラマ万華鏡、大型京焼万華鏡、投影式万華鏡など国内外の作家作品を含む約300点の所蔵品コレクションの中から季節ごとに展示している。 万華鏡とは、スコットランドの玩具の一つとして知られ、鏡を利用して筒の中に反復する模様を作り出し、動かすことにより模様の変化を楽しむことができる。 万華鏡の手作り体験教室も参加できる。
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天台宗系単立の仏教寺院。 山号は、紫雲山。 本尊は、如意輪観音。 西国三十三所第十八番札所。 正式には頂法寺。 通称の六角堂は、本堂が平面六角形に因む。 また、華道、池坊の発祥の地としても知られている。 頂法寺の本坊・池坊が執行として経営・管理を行ってきた。 華道は、聖徳太子の命により小野妹子が入道し仏前に花を供えたことから。 池坊は、池の畔に位置し、聖徳太子が沐浴したことから。 寺主は、小野妹子。 池坊の僧は、頂法寺の住持として本尊の如意輪観音に花を供え、花の生け方に妙技を見せる。 池坊12世専慶は立花(たてばな)の名手で、池坊13世専応が宮中に招かれて花を立て、「池坊専応口伝」を表現した。
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境内
1877年に建立され、入母屋造、千鳥破風付きの礼堂があり、平面六角形の屋根が二重。 秘仏本尊如意輪観音像、毘沙門天立像、不動明王立像を安置。 太子堂では南無仏太子像(聖徳太子2歳像)を安置。 親鸞堂は、六角堂。 夢告を授かる姿の夢想之像と六角堂参篭の姿を自刻したとされる草鞋の御影の親鸞像(参籠から叡山に戻る姿も安置。 へそ石は、別名、要石(かなめいし)で、旧本堂の礎石とも。
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2006年、開館。 国内外の漫画に関する貴重な資料を収集・展示する国内初の総合的な漫画ミュージアムの博物館。 当施設は、京都精華大学マンガ学部と京都市が主体となって設立。 近世思想史や美術史などを専攻する研究員4人が所属、まんが文化の研究を行い、オーストラリアのモナシュ大学日本研究センターやドイツのライプツィヒ大学も協力。 建物は、旧龍池小学校で国の登録有形文化財に登録。 明治時代の雑誌や戦後の貸本などの貴重な歴史資料、現代の人気作品、世界各国の名作などを所蔵。
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屋外でも
施設内では、一般公開のギャラリーゾーン、研究ゾーン、資料収蔵ゾーン、地域利便施設によって構成。 「マンガ本の壁」は、総延長約200mの書架に5万冊が並ぶ。 また、屋外の芝生にマンガを持ち出して読むことができる。
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京都伝統香華大学校に属し、世界に誇る京都の伝統工芸の魅力を発信することを目的に開設された博物館。 フランスやイタリアなど海外との交流展示を行っている。
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京町屋と着物の長襦袢のミュージアムとして知られ、祇園祭期間中の「屏風祭」の様子が再現されている他、明治時代から大正時代にかけての長襦袢や染色資料を展示・保存している。 1926年、建設。 和室部分は上坂浅次郎、洋館部分は武田五一が設計。 江戸時代、荻野元凱が医院を開業。 大正時代、豪商・四代目井上利助氏が元凱時代をそのままに新築し、川崎家が使用していた。 主屋座敷の東山三十六峰をモチーフにした竹内栖鳳の欄間などは近代京町家の貴重な歴史資料となっており、京都の伝統的な「大塀造」建築の代表例ともいわれている。
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付近にはかつて後鳥羽上皇の御所が置かれていた。 江戸時代、龍野藩脇坂家の京藩邸となった。 1686年、越後屋呉服店の創業者である三井高利が両替店を開いた。 三井高利は江戸、大坂、京の三都にまたがる両替事業の本部とし、貸付、為替、金銀通貨の交換などを行う総合金融業として事業を統括した。 1691年、幕府から金銀御為替御用を命ぜられ、地位を確立させた。 明治時代、日本で初めてとなる私立銀行の三井銀行を設立した。
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1549年、大陸からキリスト教文化が伝来する。 以後、全国各地に南蛮風の教会堂のが建てられ、徳川幕府によるキリスト教禁教まで続いた。 1551年、日本における本格的な教会堂が山口の大道寺として建立。 以後、豊後のデウス堂、平戸の天門寺、有馬の正覚寺、長崎、京都、堺、安土、大坂、金沢、駿府、江戸など全国各地に教会が建設され、南蛮寺、南蛮堂等と呼ばれた。 都の南蛮寺は1574年、京に建てていた教会堂の老朽化に伴って再建が決定し、日本に建てられた教会堂でも最大級規模となった。 正式名は、被昇天の聖母教会。 1587年、豊臣秀吉によるバテレン追放令後に破壊された。
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公儀呉服師を世襲した京都の豪商。 正式には中島氏。 代々、茶屋四郎次郎を襲名する習わしであった。 1500年代、信濃守護小笠原長時の家臣・中島明延が武士を廃業、京都で呉服商を創業。 茶屋の屋号は、将軍の足利義輝が明延の屋敷に茶を飲みに立ち寄ったことに由来。 初代清延は本能寺の変の際、堺に滞在中の徳川家康一行に早馬で一報し、後世に「神君伊賀越」といわれた脱出劇では、物心ともに支援を行った。 これにより、徳川家の呉服御用を一手に引き受けるようになった。 二代清忠は、淀川過書船支配など物流の取締役に任命。 関ヶ原の戦後、京都の情勢不穏を家康に進言、京都所司代設置のきっかけを作る。
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茶屋四郎次郎
板倉勝重が所司代に就任し上方五カ所(京都・大坂・奈良・堺・伏見)町人の御礼支配、京都町人頭に任命。 三代清次は家康の側近で、長崎奉行に就任、長崎代官補佐役の役割も務め、朱印船貿易で巨万の富を築いた。 角倉了以の角倉家、後藤四郎兵衛の後藤四郎兵衛家と共に京都町人頭を世襲、「京の三長者」とも。 鎖国後、朱印船貿易特権を失い、呉服師・生糸販売を専業としたが、納入価格を巡って呉服御用差し止めを受けて廃業。
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1415年、日隆により、寺号「本応寺」として創建。 日隆は妙本寺4世・日霽に師事、法華経の解釈を巡って本迹勝劣を主張した日隆は、妙本寺5世・月明と対立。 本応寺は月明によって破却、日隆は河内三井の本厳寺、尼崎の本興寺へ移った。 帰洛して大檀那・小袖屋宗句(山本宗句)の援助により、本応寺を再建。 1433年、檀那・如意王丸から六角大宮の西、四条坊門の北に土地の寄進を受けて再建し、寺号を「本能寺」と改称。 以後、法華経弘通の霊場として栄え、中世後期には洛中法華21ヶ寺の一つとなった。 応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆の多くは法華宗門徒で、法華宗の信仰が浸透し「題目の巷」と呼ばれた。
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本能寺
天文法華の乱にて延暦寺・僧兵により、堂宇は焼失し、一時、堺の顕本寺に避難。 1582年、本能寺に滞在した織田信長を家臣・明智光秀が謀反を起こして襲撃。 信長の嫡男で織田家当主信忠は、妙覚寺から二条御新造に退いて戦ったが、館に火を放って自刃。 中国大返しで畿内に戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れ、光秀も没した。 1591年、豊臣秀吉の命で移転。
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