しながわって、どんなとこ?
東京しながわって、どんなとこ?
まいどまいど! 東海道新幹線の停車駅の一つ「品川駅」は、東京都内の玄関口の一つでんな。 東京都内では最大のターミナル駅でおます東京駅と神奈川県の新横浜駅との間に位置し、毎日、ぎょうさんの新幹線車両が停車してはりまんな。 そんな品川駅(東京都港区)から少し歩いた場所に位置する品川区にはぎょうさんのビルやマンションが立ち並び、商業地であると同時に住宅地としての一面も持ってまんねん。 そんな品川区には日本を代表する企業の一つ「ソニー株式会社」とその「ソニー株式会社」に関連する企業が密集しており、「ソニー村」と呼ばれているそうで。 周辺は、ぎょうさんの人でにぎわおうてはりまんな。 その他、品川にはかつて自然豊かな海がせまっていたといい、その名残が品川浦。 現在も海には釣船や屋形船が浮かべられ、大正時代の雰囲気を今に伝えている。 ほんでまた、付近に鎮座する神社の一角に建立された鯨塚は、「享保の象」、「文政の駱駝」と並ぶ江戸を驚かせた三大動物の一つ「寛政の鯨」の骨を埋めた上に供養碑。 さて、そんな品川区には何があるねんやろ? 何か、おもろいもんはあらへんか、と発見・探索してみることにしまひょ!
品川浦はかつて「御菜肴八ヶ浦」と呼ばれ、獲れた魚を江戸城に納める漁村の一つであった。 水揚げは豊富で海苔の産地でもあったが、東京港建設のため1962年に漁場権利を東京都に譲り渡し、品川周辺の海苔養殖は幕を閉じた。 現在、釣船や屋形船が舳先を並べ、水路に架かる石造りの北品川橋は大正時代に建造されたとか。
利田神社は江戸時代、沢庵和尚が弁財天(洲崎弁天)を祀ったことが始まり。 元々、旧目黒川の河口の砂洲に弁天社が祀られていたが、明治時代に利田神社になった。 祭神は市杵島姫命。 名の由来は周辺の開発に尽力した利田利兵衛の姓から。
鯨塚は、「享保の象」、「文政の駱駝」と並ぶ江戸を驚かせた三大動物の一つ「寛政の鯨」の骨を埋めた上に建立された供養碑。 1798年、品川沖で鯨が出現し、品川の漁師が捕獲し11代将軍徳川家斉が浜御殿(浜離宮恩賜庭園)で上覧。 谷素外の俳句「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」。 東京に現存する唯一の鯨碑。
「日本橋より二里」の碑が建立。 花壇にはかつて海岸線の土留めに積まれた石垣を利用。
東海道五十三次の宿場の一つ。 東海道の第一宿で、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。 1601年、港町として栄えていた品川湊付近に設置、北宿、南宿、新宿にわかれていた。 目黒川を境に、それより北が北品川宿、南が南品川宿、北品川の北にあった宿を歩行新宿。 歩行新宿は、品川宿と高輪の間に存在した茶屋町が1722年に宿場として認められ、宿場が負担する伝馬と歩行人足のうち、歩行人足だけを負担、「歩行人足だけを負担する新しい宿場」という意味。
宿場町
岡場所(色町、遊廓、飯盛旅籠)としても賑わい、食売旅籠屋、水茶屋が軒を連ね、「北の吉原、南の品川」と称されるほど一大遊興地として繁栄。 1872年、宿駅制の廃止と鉄道の開通によって衰退。 1958年、遊廓としての賑わいは売春防止法施行まで続いた。
昔ながらの雰囲気が漂う商店街。 商店街では飲食店や居酒屋、雑貨店などが立ち並ぶ。 北品川本通り商店会は旧東海道に連なり、清水横丁、大横町、台場横丁、黒門横丁、裏町等の路地から構成。 道幅は江戸時代当時と同じ約7m。 品川宿の中で歩行新宿と呼ばれていた。 歩行とは幕府の命により歩行役と呼ばれ馬を用意していた場所。 また、品川宿では北品川本宿・南品川本宿とあり、旅籠や料理屋、貸し座敷が増え、後に歩行新宿として認められたとも。 品川宿は飯盛り女等も多く、「北の吉原、南の品川」と並び称されるほどの有名な遊興地でもあった。
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1774年、利田利兵衛らが中心となって新田開発が活発化。 当地は埋め立てが始まった南品川漁師町の地先で、利田利兵衛から利田新地(南品川新開場)と名付けられた。 朝日町は利田新地の字で、目黒川に架かっていた旧鳥海橋(品海橋と改称)から北側の弁天堂(利田神社)までの間の地。 品川で一番早く朝日を拝めることから朝日町という町名の由来になったとも。
品川台場は別名、御殿山下砲台跡。 江戸時代、江戸防衛のために築かれた品川台場の一つ。 1853年、ペリー来航に衝撃を受けた幕府は江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画。 江川太郎左衛門が指揮を取り、御殿山や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められたが、完成したのは6基。 当地では五稜形の砲台が築造、大砲が備えられた。
御殿山は、高輪台地の最南端に位置する高台で、城南五山の一つ。 1460年頃、太田道灌が江戸城への入城前、当地で御殿山城を築城し、居城とした。 夢のお告げがあり江戸城に入り、御殿山城には宇多川和泉守長清を配したという。 当時は眼下に、浅草湊と並んで栄えた品川湊を見下ろす高台であったとか。 徳川家康が江戸城を居城として以後、御殿山城は「品川御殿」と呼ばれ、歴代将軍鷹狩の休息所となり、幕府重臣を招いた茶会の場・桜の名所として有名であった。
かつてを偲ぶ
1702年、四ッ谷太宗寺付近の出火が原因により焼失。 1670年頃、桜は移植され、600本に及ぶ桜の名所として整備。 幕末期、国防の為の台場建設用土砂採取場となり、山の北側は窪地となった。 1861年、幕府は英国など諸外国の公使館を御殿山に建設することを計画していたが、尊皇攘夷派の高杉晋作、志道聞多(井上馨)、伊藤俊輔(伊藤博文)らが襲撃し焼失。 明治時代、益田孝などの屋敷が多く存在した。
1946年、井深大、盛田昭夫らによって東京都中央区日本橋の白木屋(後の東急百貨店日本橋店、現在の「COREDO 日本橋」)3階で東京通信工業株式会社を設立し、真空式電子電圧計などを製作した。 1947年、本社および工場を東京都品川区の御殿山地区に移転。 1958年、商号をソニー株式会社に変更し、東京証券取引所に上場した。 日本初のテープレコーダーやトランジスタラジオなどは当地で開発された。 付近ではソニー株式会社関連の企業が入るビルが多いことからソニー村とも呼ばれている。
ソニーの歴史や商品などを展示している企業ミュージアム。 モットーは、「人のやらないことをやる」。 目的は、「技術者がその技能を最大限に発揮することのできる“自由闊達にして愉快なる理想工場”を建設し、技術を通じて日本の文化に貢献すること」。 東京都中央区でソニーの前身となる東京通信工業を設立。 当初、真空式電子電圧計などを製作していたが、日本初のテープレコーダーやトランジスタラジオなどを開発。 1947年、本社及び工場を東京都品川区の御殿山地区に移転。 1958年、商号をソニーに変更し、東京証券取引所に上場。 付近ではソニー株式会社関連の企業が入るビルが多いことからソニー村とも呼ばれている。
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