深江菅の里・韓流だけやないグルメと出会う旅
大阪深江菅の里・韓流だけやないグルメと出会う旅
まいど! 大河ドラマ「真田丸」で注目を集めている大阪市東成区。 戦国武将・真田幸村(真田信繁)ゆかりの地として知られ、大阪の陣の勃発から400年の節目を迎えるに当たり、イベント「幸村ロード」が開催された。 付近には真田幸村が使用したとされる抜け穴と像が建立、本陣も置かれていたとされ、豊臣秀頼、徳川家康、真田幸村などの戦国ファンにとっては、人気のエリアとなっている。 また、大阪のみならず関西人にとってはなじみ深いJR西日本大阪環状線の103系がモチーフとなったビエラ玉造が誕生。 ここでは、いろんな店が立ち並んでいるが、なんといっても、あのオレンジ色が目印。 そして、大阪名物・イカ焼きをもっと気軽に楽しめるお店がある。 イカ焼きと言えば、全国的にイカの姿焼きを思い浮かべるかもしれまへんねやけど、実はちゃいまんねん。 お好み焼きやたこ焼きに代表される粉の”こなもん”のまちで誕生したイカ焼きは、粉とイカがコラボ。 牛でもなく豚でもなく、蛸でもない。 イカ本来の美味しさをそのままに生かしたイカ焼きをぜひ、皆さんの舌で味わってみてください。 さて、そんなおもろい大阪市東成区をご紹介いたします!
2014年、魅力あふれる大阪環状線を目指して、西日本旅客鉄道では、「大阪環状線改造プロジェクト」を開始した。 大阪環状線の停車駅の一つに数えられる玉造駅では、駅構内・高架下の改造に伴い、「ビエラ玉造」を開設した。 高さ違いの窓は、曲のメロディーの高低を表現している。 テーマは、「健康と日常生活支援」。 フィットネスジム、雑貨店、飲食店等が入居。
大阪環状線車両がモチーフ
外観は、実際に大阪環状線を走っている橙色の車両103系を模している。
JR西日本大阪環状線の停車駅の一つ「玉造駅」。 目の前には、玉造商店街の入り口が見える。 実はここ玉造に、イベント「幸村ロード」が開催された。
イベント「幸村ロード」で、まちおこし
幸村とは、戦国時代に活躍した武将・真田幸村のことで、徳川家康を相手に大阪の陣が勃発。 その中心的人物として活躍した。 付近には、大阪城から続く秘密の抜け穴があると言い、近年の宅地開発で姿を消しつつあるが、三光神社では抜け穴の一部を保存。
この店では、たこ焼きやお好み焼き、焼きそばなどの定番の他、ほろ酔いセットや生ビールセットなどのメニューもある。
ふうふう焼き
大阪名物イカ焼きがベース。 ベーコン、焼きそばの麺などが加えられている。 その他、好みに合わせて「チーズふうふう」や「ねぎふうふう」などがある。 イカ焼きをベースとしているので、イカや焼きそばを一度に味わえるほか、キムチも入っているので、程よいピリカラを楽しめる。 この店では、お持ち帰りができるほか、テーブル席もあるので、2階で景色を眺めながら頬張るのもオススメ。
大阪に行列のできるラーメン屋がある。 それが、金久右衛門。 ここの名物・大阪盛(だいはんじょう)ラーメンは絶品。 醤油ラーメン専門店として知られ、黒醤油ラーメンがベースの大阪はブラックの麺は、太麺と細麺から選ぶことができる。 創業者は、運輸省官僚出身。 1999年に職を辞してここに店舗を構えたことにはじまる。 今では東成区深江北を本店に大阪府内各地を中心に展開する。
祭神は、宇賀御魂神、旧深江村の氏神である。 700年代に創建されたとされる。 1603年、豊臣秀頼が社殿を改造した。 また、境内には、笠縫邑跡や深江菅笠ゆかりの地と刻まれた碑が建っている。
摂津笠縫村跡・深江菅笠ゆかりの地
この付近は、大和笠縫氏の子孫が移住したと言われている。 別名、菅の里と呼ばれている。 明治時代まで、周辺に住む人々の多くは、笠づくりに従事していたと言う。 江戸時代、笠づくりの最盛期を迎え、伊勢参宮の道中用に使われたと言う。 現在では、伊勢神宮式年遷宮と天皇即位式大嘗祭に、ここから納められている。
名称の由来は、かつてこの場所を流れていた千間川である。 明治時代、千間川は開削された。 延長が約1千間(約1.5km)なので、この名が付けられた。 この地には、千間橋や中浜橋などが架けられていたが、後に埋め立てられた。 1972年、公園として開園した。 現在でもは、憩いの場として親しまれている。
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1903年、第五回内国勧業博覧会で多数のセルロイド製品が展示された。 1927年、大阪輸出セルロイド櫛工業組合が設立された。 1931年、製品検査場として建設され、完成した。
聖徳太子によって創建された。 1679年、近世国学の祖と言われる契沖が住職となった。 修学の道場として、大阪府顕彰史跡に指定。 万葉代匠記を執筆したと言う。 1949年、妙法寺境内は、契沖史跡として大阪府顕彰史跡に指定。 当時の遺構は残っていないため、詳細は不明である。
江戸時代、人の往来により奈良街道が盛んとなる。 この街道の起点となった玉造には「つるや」「ますや」という二軒の茶屋が建てられた。 その後、二軒の茶屋が由来となり、二軒茶屋と呼ばれ、親しまれている。 1711年、付近を流れていた猫間川に「黒門橋」と呼ばれる橋が架けられた。 由来は、大阪城の玉造門が黒い門であったことから。 橋は、「石橋」とも呼ばれていたと言う。
駅前なので、通勤客・通学客でにぎわっている。 主に、飲食店や雑貨店などがある。
昭和初期は、市電の終点として発展したと言う。 毎年十二月に開催されている「こどもカーニバル」や「新橋ふれあいマーケット」を開催するなど、話題の多い商店街である。
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大正時代、森之宮にあった砲兵工廠への通勤路として発展したと言う。 一時期は、東の心斎橋とも称された。 戦後、鶴橋国際マーケットができ、発展。 今では、「なにわはしご祭」を開催するなど、話題の多い商店街である。
付近にある比売許曽神社に祀られている大小橋命の胞衣が納められているとされる。 また、この塚に植えられた柳が子どもの夜泣き封じに効能があると伝承されている。 「えな塚」や「よな塚」などと呼ばれている。