佃煮・君が代発祥のまち大阪市西淀川区。
大阪佃煮・君が代発祥のまち大阪市西淀川区。
まいど! 大阪はこれまでインスタントラーメン、インスタントカレー、オムライス、先物取引・為替、スーパーマーケット、回転寿司、自動券売機・自動改札機、シャープペンシル、カッターナイフなど多くの便利もん・うまいもんを世に送り出してきた。 そして、今回、皆さんにご紹介したい食べもん、それが、佃煮。 ご飯のおともとして親しまれてきた佃煮やけど、実は、大阪市西淀川区の発祥やったんやで~♪ 一説によると、東京・佃島ともいわれているようでんねんけど、今回は、大阪市西淀川区を有力説としてご紹介しています。 ほんでから、国歌・君が代の歌詞の一部として知られる「こけのむすまで」は、大阪市西淀川区に鎮座する姫島神社がゆかりとも。 大阪市西淀川区は大阪湾岸に位置する一方、工場が密集するまちとしても知られ、大阪のシンボルとして知られる「江崎グリコ」の工場見学もたのしむことができまんねん。 大野せせらぎ公園で楽しんで、大和田城址で歴史を感じて、野里住吉神社で渡し跡の名残を目で感じながら、素敵な一日を!
大阪市西淀川区にある歩行者・自転車専用道路である。 別名、大野川緑陰道路とも呼ばれている。 約3.9km続く遊歩道は、歩行者専用道路と自転車専用道路に分離されている。 もともとは、神崎川と新淀川を結ぶ大野川であった。 このため、交差する道路とは完全立体交差が施されている。 かつて、存在した大野川は、地域の舟運や治水などに利用されてきた。 1972年に埋め立てられ、1979年に完成した。
祭神は、表筒男命、中筒男命、底筒男命、神功皇后である。 869年、田蓑嶋神社として鎮座した。 1868年、田蓑神社へと改称する。 1586年、この地に立ち寄った徳川家康は、多田神社(大阪府池田市)に参詣した。 1631年、田蓑嶋神社内に、徳川家康公が奉られることになった。
佃漁民ゆかりの地
かつて、この場所は、佃島と呼ばれ、漁業が盛んな地域であった。 1600年頃、住吉大社を参拝後、徳川家康公がこの地へ立ち寄り、佃漁民への漁業権を与えた。 もともと、漁業が盛んな地であったため、海産物が豊富に獲れ、佃煮の発祥地として知られる。 また、東京の佃島の由来ともなったという説がある。
公園内には、安定池と呼ばれる池があり、その周りには、遊歩道が整備されている。 このほか、せせらぎやあずまやがある。 水生植物や常緑樹などが植えられている。 安定池とは、水の中で生息する微生物や水生植物など、自然の浄化作用(水をきれいにする力)を利用して、下水処理場できれいにした水をさらにきれいにする施設である。 また、梅の木が約200本植えられ、梅の開花する2月下旬になると一般公開されている。
祭神は底筒男命、中筒男命、表筒男命、気長足姫尊。 1320年、勧請。 付近の漁民や舟行安全の守り神として信仰を集めた。 1910年、沢の宮の八幡神社を合祀。 1911年、1688年の出来島開発の際に勧請された皇大神宮社を合祀。
1185年、源平合戦のため、屋島へ向けて暴風の中を船出した源義経は、波浪のため当地へ押し流されたという。 そこで、当地の住吉大明神に海上平安を祈願したところ、嵐もやみ無事渡航に成功、平氏を討つことができた。 そのとき、記念として松が植えられたと言う。 1877年、落雷で焼矢し、現在は、伝承地として知られている。
新千船橋の親柱があります。 大和田川の新千船橋に架かっていた鉄橋は、初代心斎橋の鉄橋。 1928年、新千船橋として転用され、1971年に撤去。 現在、鶴見緑地西橋に再移設。
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1570年、本願寺と織田信長の間で石山合戦が始まった。 1575年、中津川で織田方の荒木村重と戦い敗れ大和田城は落城となる。 1576年、荒木村重は織田信長の命で石山本願寺包囲のため吹田・尼崎など10城を築いた。 1580年、石山合戦が終わると同時に織田信長は阿波仁衛門に築城を命じた。
国歌である「君が代」のゆかりの地である。 姫島神社の境内に、万葉歌碑がある。 711年、姫島の松原に牛を放って178年後、その松原の小松が大きく育って老松になり、苔がむすまでおとめの名が残るようにという鎮魂の歌として知られる。
1382年、足利義満によって建立されたと言われる。 同社には、「一夜官女」と呼ばれる神事があり、大阪府の無形文化財に指定されている。 この周辺は、毎年旧暦1月20日に、娘を神に捧げる神事を行うようになったと言う。 1702年、氏子より選ばれた7人の女性が、御供物の桶7台と共に神前に進み献じる。 また、境内の東側には、明治末期の堤防の遺溝がある。
野里の渡し跡
1889年、改修工事が始まった。 これまで野里住吉神社の東側は淀川に面していた。 現在、境内の南側に残る土手は、当時の堤防の名残とか。 野里の渡しは、大阪市と兵庫県尼崎市を結ぶ大和田街道に設置された渡しで、野里住吉神社の北側にあった。 1876年に木製の橋が架けられるまでは、大阪と中国地方を結ぶ交通の要所としてにぎわっていた。 室町時代、堀江彦左衛門によって野里村と同時に開発されたという。
江崎グリコは、有明海の漁師らが捨てたカキの煮汁に含まれる栄養価の高いグリコーゲンをカラメル製造に用いてその美味しさが評判になったことが原点。 その後は、ビスコ、プリッツ、ポッキーなど様々な菓子を製造した。 江崎グリコの歴史をはじめ、数々の商品について展示・紹介されている。 ※要事前予約
1185年、源平合戦のため、屋島へ向けて暴風の中を船出した源義経は、波浪のため当地へ押し流されたという。 そこで、当地の住吉大明神に海上平安を祈願したところ、嵐もやみ無事渡航に成功、平氏を討つことができた。 そのとき、記念として松が植えられたと言う。 1877年、落雷で焼矢し、現在は、伝承地として知られている。
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