大阪の城東で上等。大坂の陣から相撲に関所まで
大阪大阪の城東で上等。大坂の陣から相撲に関所まで
まいどまいど! 大阪の人気観光地「大阪城」がある中央区の隣に位置するのは、大阪市城東区でおまっせ! 国技の相撲との縁が深く、大阪国技館・相撲茶屋があったとか。 また、1614年から1615年にかけて勃発した大阪冬の陣、大阪夏の陣の激戦地として知られておまして、佐竹義宣氏が若宮八幡大神宮に本陣を置いていたとか。 今は廃城となった榎並城も名残はなく、石碑が建立、当時を物語ってまんねん。 その他、昔ながらの雰囲気漂う関目商店街では、地元の商店街を盛り上げようと、さまざまなイベントが開催されてまっせ! 開催期間中はぎょうさんの見物客が訪れてはりまんな。 また、関目では江戸時代、宿場町として知られ、関目神社境内では、「東海道五十七次」に指定されたとして石碑が建立、関目発祥の地としても知られ、石碑が建立されてまんねん。 大阪市城東区の下町を歩くと、お笑い芸人として活躍するたむらけんじさんのお店で炭火焼肉を味わいつつ、日替わりでいろんなライスカレーが楽しめるお店を見つけた。 大阪の魅力がまだまだおまっせ。 隠れた名所・大阪市城東区を散策していきまひょ!
創建時期など詳細は不明となっている。
大阪夏の陣・佐竹義宣氏本陣跡
1614年、豊臣方と徳川方の間で大坂冬の陣が勃発。 参勤のため久保田城を出立していたが、大阪への出陣命令を受けた。 徳川方についた佐竹義宣氏は境内に本陣を構え、鴫野、京橋口の戦いにおいて、戦勝を祈願した。 上杉景勝氏、木村重成氏、後藤基次氏が率いる軍勢とあたった。 今福の戦いにおいて、渋江政光氏が戦死し、幕府における佐竹軍の評価は高まった。
古くは旧大和川(寝屋川)の北岸に位置し、低地帯であったため、洪水が頻発していた。 江戸時代、16軒の地主がいたため、16軒村と呼ばれていた。 また、蒲穂の産地として知られ、名産品となった。
お笑い芸人として活躍するたむらけんじさんが運営する焼肉専門店。 大阪府阪南市出身の実業家たむらけんじさんは、よしもとクリエイティブ・エージェンシー所属のお笑い芸人として知られ、持ちネタは「ちゃー」を使ったダジャレ、全国的にはふんどし姿で登場し、ショートコントを行う。 炭火焼肉たむらは2006年、妻の親族が経営していた焼肉店の営業権を引き継ぐ形で、「炭火焼肉たむら 蒲生本店」を開業した。 正式称号は、田村道場。 たむらけんじさんは本名、田村憲司さんとして芸人としての人脈を活用し、良質の肉、ドリンク、調味料、たれなどを安く仕入れることに成功したとか。
炭火焼肉たむら
「炭火焼肉たむら」のロゴは、後輩芸人・川島邦裕(野性爆弾)さんによる書を採用。 また、土肥ポン太さんが経営する八百屋から仕入れた野菜をメニューに取り入れている他、徳井義実(チュートリアル)さん、黒田有(メッセンジャー)さん、木村祐一さんがメニューを考案。 トミーズ健(トミーズ)が勧める専門店のキムチも提供している。 営業は昼間と夜間の2部に分かれ、今回は、昼間にお邪魔した。
蒲生本店でのメニュー
蒲生本店でのメニューは、タン、ロース、ハルビ、ハラミ、赤身、ホルモン、新鮮野菜、などの単品の他、おすすめ肉盛合わせ、厳選肉盛合わせ、富豪盛、特選肉の盛り合わせ、王道ランチ、盛り沢山レディースセット、お好みセレクトランチ、カレーなどがあるが、今回は王道ランチ(1280円)を選んだ。 王道ランチには、本日のおすすめ牛、ハラミ、ロース、ソーセージ、スープ、付け合わせ。 ごはんのお替りは自由。
大阪府大阪市城東区蒲生1丁目8−9 牛焼きニクカレー、燻製キーマカレー、ニクスキ丼、和牛の燻製スキヤキなどが味わえるレストラン。 店内はカウンター席とテーブル席がある。
ニクスキカレー
病みつきになるカレーのルーとライスとの相性が抜群のニクスキカレー。 スープもついて、追加でトッピングも可能。
大阪市内の中心部を流れる寝屋川は、交通の要衝として支えてきた。 江戸時代、北河内と都心部をつなぐ重要な役割を果たし、付近の今福はその中継地として知られる。 大正時代、巡航船は、天満橋を始点に、片町、鴫野橋、朝日橋を経て、新喜多大橋までを往復していた。 船は30人乗りで屋根があり、窓際には腰かけなどがあった。
かつて付近には、鯰江川が流れていた。 鯰江川には三郷橋が架けられていた。 大正時代、今福三卿橋閘門樋の工事を行っていた際、川底から丸木舟を発見した。 この舟は、楠の大木をくり抜いた長さ約13mの大きさである。 築造時期は平安時代の頃と推定されている。
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祭神は、天照皇大神。 創建時期など詳細は不明となっている。 平安時代、摂津国今福村が開発され、建立された。 伊勢神宮に納める神税の御蔵跡地であった。 かつては、小高い丘に鎮座し、榎並荘一帯の氏神として信仰を集めてきた。 大正時代、榎並という地名の由来となった榎が生息していた。
歩道脇には、 味わいこだわり本格カレーの店 と掲げられ、腹ペコの食欲をそそる。 老舗の雰囲気漂うお店 ライスカレー の扉を開けると、テーブル席があった。
ライスカレー
日替わりメニューでは日曜日から土曜日まで日替わりで変わり、コロッケカレー、唐揚げカレー、やさい盛りカレー、ほうれん草カレーなど。 辛さやライスの量は自由に選択可能ではあるが、今回は両者とも普通とした。 ライスの上にルーがかけられ、ウインナーが乗ったカレーライス。 美味しさと香ばしさ。 絶妙な辛さが混ざりあって、合間につまむ福神漬けも旨い!
もともとこの地には、川幅10mの千間川が流れていた。 千間川は、1868年から1912年、平野川と中高野街道とを結ぶ用水路で、農業用水と農作物などを舟で運ぶため水利の便から開削された人工の川であった。 名前の由来は、延長の約1.8km(千間)から。 1967年に埋め立てられ、現在は緑陰道路になっている。 周辺には、1972年に千間川が開園した。
京阪電鉄京橋駅付近で、京街道から分岐する古堤街道は、野崎道とも言われた。 1700年頃、大東市野崎の慈眼寺への参詣道としてにぎわっていた。 参詣はこの堤道を歩く・寝屋川を屋形船で往来するなどの当時の面影がうかがえる。
1948年、区役所や消防署、警察が立ち並び始めた頃に商店街が開設された。 毎年7月第1、2土曜日は「土曜夜市」、毎月第2日曜日にはフリーマーケットが開催される。 また、年末年始のバーゲンやイベントも開催されている。 駅前なので、通勤客・通学客でにぎわっている。
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1937年、約25000人を収容できる屋内スポーツ施設として竣工。 大阪国技館は、鉄筋コンクリートの4階建となっており、こけら落としの大阪準本場所は、連日「満員御礼」の垂れ幕が下がっていた。 国技館付近には、2階建ての相撲茶屋が建ち並び、2階には力士の宿舎となっていた。 その後、太平洋戦争が勃発し、休館とした。 第二次世界大戦後に解体され、現在は住宅地となっている。
関目商店街では、商店街の活性化を目的としてイベントを開催した。 このイベントでは、風鈴レターイベントと題して、城東区役所、関西大学政策創造学部らが中心となり、地域住民にとって親しみのある商店街を目指して実施している。 地域の子供たちが参加し、約200個の風鈴が商店街に並ぶ。 風鈴は、子どもたちが色付けした短冊に「この夏休みに頑張る目標」を記したという。
1868年、明治天皇は天保山(大阪市港区)での観艦式に臨むため、京都から行在所となる大阪の本願寺津村別院(米ツ名、北御堂)に向かう途中、当地にて営業していた西井茶屋を訪れ、休憩をとったという。 1913年、これを記念して「明治天皇御駐輦之跡碑」を建立し、関目神社の境内に保存している。
祭神は、素盞嗚命。 創建時期など詳細は不明である。 豊臣秀吉が大坂城築城の際、鬼門の治めとして、小さな社を建立したのがはじまり。 付近には、大阪城と伏見とを結ぶ京街道があり、城から敵兵の軍容や兵数を知るため、道路を狭く、曲がりくねらせた「七曲がり」が今も残っている。
関目発祥の地
1114年、榎並荘近衛家所領として管理され、関目と呼ばれていた。 「関目」とは、豊臣時代、この付近に見張り所(目で見る関所)があったことが由来。 付近には、大阪城と伏見とを結ぶ京街道があり、城から敵兵の軍容や兵数を知るため、道路を狭く、曲がりくねらせた「七曲がり」が今も残っている。
明治天皇大坂行幸と東海道五十七次(京街道)の碑
江戸時代に整備された五街道のひとつ「東海道五十三次」とは、東海道にある品川から京都までの53の宿場を指す。 「東海道五十七次」とは、大阪までの宿場を指し、1619年に設置。 1868年、明治天皇が1000人以上のお供を連れて、津村別院(北御堂)へと向かう途中、関目の地で御小休されたのを記念して建立された。 正確な場所は、関目高殿交差点南西付近と言う。
京都法勝寺修正会に参加する猿楽には3座ある。 そのうち、丹波矢田郷(亀岡市内)は、本座、榎並を新座と称した。 榎並猿楽はこの付近に座を構え、住吉神社の御田植神事に奉納した。 室町時代、大和猿楽に移り衰退する。 榎並城は、淀川・旧大和川・池などに三方を囲まれた天然の外堀を持つ堅城であった。 1368年、楠木正成の子である正義も、ここに在陣した。 戦国時代、細川氏の内紛で摂津各所では内乱が頻発していた。 1549年、三好長慶は、柴島城による細川春賢・三好長政を攻めた。 長政は、江口の里に出陣し、十河一存(柴島城)らに攻められ、長政は戦死した。
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祭神は、水波女大神である。 水神社・水神さま・水神宮・野江神社などと呼ばれている。 1533年、創建された。 起源は、三好政長が榎並城を築く際、城内に水火除難の守護神の祠を造営し、祀ったことから。 1885年、社殿は大洪水で倒壊し、再建した。 また、野江水神社の境内には宇迦之御魂大神を祭った野江稲荷神社がある。