せやせや!関西が好っきゃねん
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PON!と先斗町で楽しむ納涼床(川床)

PON!と先斗町で楽しむ納涼床(川床)

まいどまいど! 京都を代表する繁華街っちゅうたら、PON!と先斗町かもしれまへんな。 先斗町と書いて「ぽんとちょう」。 なんや読めそうで読まれへん、えらい難読地名ともなってまんねやけども、そんな難読地名にも関わらず、街並みは情緒あふれる昔ながらの趣を今に伝え、国内外から注目を浴び、今日もぎょうさんの観光客が訪れてはりまんねん。 夏はなんちゅうっても、納涼床でんな。 夏季限定で開放される納涼床は避暑の場所としても人気で、一歩、お店に入ると足元には鴨川を流れる水の流れ。 テーブルの上には地産地消を根差した京都の美味しいお料理が少量ずつ運ばれてくる。 カップルと、ご家族と、ご友人とゆったりとした時間を過ごすことができまんねん。 ほんでまた、ぶらりと周辺を散策したときに、見つけたおもろそうな場所も。 今回も京都の魅力を求めて、ぼちぼちと皆さんにご案内していきまひょ! ほな、まいどおおきに。

瑞泉寺
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瑞泉寺

山号は慈舟山。 宗派は浄土宗西山禅林寺派。 本尊は阿弥陀如来 桃山時代、当地付近は三条河原の中洲であった。 1611年、京都の豪商・角倉了以によって高瀬川を掘削。 その時に発見された石には秀次悪逆塚と刻まれていたとか。 これは1595年に自害した豊臣秀次の石塔で、秀次は叔父の豊臣秀吉から謀反を疑われて高野山に追放されて切腹。 家臣5人、秀次の妻妾、幼児など約30人が処刑、遺体は河原に埋められ、塚と石塔が建立。 了以と立空桂叔(浄土宗西山派僧侶)は、秀次の菩提を弔うために堂を営むこととした。 寺号は秀次の戒名「瑞泉寺殿高巌一峰道意」が由来。

弥次喜多像
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弥次喜多像

1802年から1814年に刊行された十返舎一九の滑稽本「東海道中膝栗毛」。 栗毛は栗色の馬、膝栗毛は自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意。 東海道中膝栗毛に登場する主人公でお江戸・神田八丁堀の住人、栃面屋弥次郎兵衛と居候の喜多八の2人の名前を足した「弥次喜多」。 喜多八は妻と死別、仕事上の失敗から勤務先を解雇されるなどの不運が続き、つまらぬ身の上に飽き果て、身上を整理して財産を風呂敷包み一つにまとめ、厄落としにお伊勢参りの旅に出た。 江戸から東海道を西へと進み、伊勢神宮、京都、大坂へと巡る。 道中、狂歌・洒落・冗談を交わし合い、いたずらを働いては失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。

佐久間象山・大村益次郎 遭難の碑 道標
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佐久間象山・大村益次郎 遭難の碑 道標

佐久間象山は信州松代藩出身で、儒学や朱子学を修め、西洋科学の導入で日本の殖産興国に尽力し、勝海舟、吉田松陰、坂本龍馬らを輩出。 1864年に幕府の命で上洛し、開国論を唱えて公武合体に努め、刺客に惨殺された。 大村益次郎は長州藩出身で、医学を梅田幽斎に、緒方洪庵の適塾で学び、兵学者となった。 長州藩の軍事指導者として活躍し、兵部大輔に任命され、近代兵制樹立に尽力した。 廃刀論で士族の反感を買い、三条木屋町にて反対派士に襲われ、敗血症となり大阪の病院で死去した。 二人はともに、幕末の兵学者で、木屋町御池付近に居を構えていた。

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