名を在原業平の歌に由来する東京スカイツリーのお膝元-言問橋
東京名を在原業平の歌に由来する東京スカイツリーのお膝元-言問橋
シリーズ「隅田川17橋クルージング」と題して、隅田川に架かる17の橋梁を一つずつ渡っていく旅。 その4橋目は台東区花川戸と墨田区向島の間に架かる「言問[こととい]橋」です。 「名にし負はば いざこと問はむ都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと」 橋の名は平安時代の歌人在原業平が詠んだ、この和歌に因んだものとの説が有力です。 誕生のきっかけは大正12(1925)年の関東大震災。 隅田川に架かっていた木造橋の多くが崩落します。 復興計画の一環として「震災復興橋梁」という9つの鉄橋が造られました。 その9橋の中で言問橋は内務省復興局が建造した6橋(相生橋/永代橋/清洲橋/蔵前橋/駒形橋)のひとつです。 また、橋の両岸に広がる隅田公園も当時「震災復興公園」として造られました。 東へ行けば首都東京の新たなるシンボル「東京スカイツリー」。 西へ行けば昔ながらのマニアックな飲食店が軒を連ねる浅草観音裏。 過去と未来をつなぐ摩訶不思議な橋…それが言問橋なのです。
橋の上部に優美な曲線のアーチを持つ白鬚橋などとは対照的に、アーチのない直線的なフォルムが特徴です。 これは隅田公園の中央を結ぶ位置に架かっていることから、景観に配慮したためとか。 この設計が評価され、平成20(2008)年には「東京都選定歴史的建造物」に選定。 「建築後50年を経過した歴史的価値を有する景観上重要な建造物」というのが、その理由です。
開通は昭和3(1928)年…それ以前は渡し船が両岸を結んでいました
架橋される前は上流に「竹屋の渡し」、下流に「山の宿の渡し」があり、それぞれ両岸を結んでいたそうです。 言問橋の開通に伴い、2つの渡しは廃止されました。
昭和20(1945)年3月10日の東京大空襲では大惨事の舞台に
浅草と向島・本所それぞれの住民が、対岸に渡って空襲から逃れようと言問橋に殺到。 橋の上で大勢の人たちが身動き取れなくなる事態に。 そこへ上空から焼夷弾が降り注ぎ、両岸から火災旋風が襲いかかります。 人々は次々に隅田川へ飛び込みますが、そこも人だらけで助かる術もなく。 空襲が終わると橋の上も下も焼死体の山だったそう。 その折、死体の脂が燃えた煤による黒ずみが、今でも橋の柱に残っています。
西詰の上流部分に立つ「東京大空襲戦災犠牲者追悼碑」
関東大震災の慰霊碑は結構あるのですが。 東京大空襲のそれは滅多に見かけません。 多分、戦勝国アメリカに遠慮したものと思われます。 これは数少ない碑のひとつ。 隅田公園のこの一帯は東京大空襲の犠牲者を仮埋葬した場所。 遺体は区内の公園等に仮埋葬され、戦後荼毘に付され東京慰霊堂(隅田区)に納骨されたそうです。 ちなみに東京慰霊堂は蔵前橋東詰の先にあります。
東詰から少し北へ向かったところにある古社。 元は牛島神社の隣にありましたが洪水で流され、河岸に堤を築くために現在地へ移転しました。 祀ってある神様は宇迦御魂之命[うがのみたまのみこと]…つまりお稲荷さん。 また、七福神の恵比寿と大黒天も祀られています。 いつ出来たのかは不明ですが、現在の社殿は安政年間の建築とされています。 南北朝時代、近江国三井寺の僧源慶が荒れ果てた社殿を再建しようとした時、地中から壺が掘り出されました。 開けてみると中には白狐に跨った老爺の神像が。 その時どこからともかく白狐が現れ、神像の周囲を3度回って去りました。 これが「みめぐり」と呼ばれるようになった由縁だそうです。
江戸時代の観光ガイドブック「江戸名所図会」でも紹介された「俳諧の霊場」
元禄6(1693)年、松尾芭蕉門下第一の高弟と謳われた俳人の宝井其角が偶然、門前を通りかかりました。 この年は酷い旱魃で、雨乞いをする地元の村人から哀願されて一句詠みます。 「遊[ゆ]ふた地や田を見めくりの神ならは」 遊ふた地…夕立と見めくり…三囲を掛けたものですね。 この句を神前に奉ったところ翌日、雨が降りました。 この故事から「俳諧の霊場」と呼ぶ向きもあるそうです。
三井邸から移設された「三柱鳥居」のモデルは京都太秦の木島神社
三井グループ宗家の三井家は享保年間、三囲神社を江戸における守護社と定めました。 境内には石造りの三柱鳥居[みはしらとりい]があり、中心には井戸が設けられています。 三つの春日鳥居を笠木が三角形をつくる形状に組み合わせた特異な鳥居。 鳥居には「三角石鳥居。三井邸より移す。原形は京都・太秦 木島神社にある」と刻まれているそうです。
境内には三井家の“霊廟”顕名霊社[あきなれいしゃ]も鎮座
三井家が三囲神社を守護神に定めた理由は“囲”の字に三井の“井”が入っていること。 「三囲は三井に通じ、三井を守る」と考えられたからだそうです。 境内の一角に三井11家の当主夫妻、120柱余りの霊を神として祀った「顕名霊社」が鎮座しています。 平成5(1993)年に第11代三井総領家当主、三井八郎右衞門高公邸から移築されたもの。 没後100年を経た霊だけが祀られる、三井家にとっていわば“霊廟”です。
三囲神社は今も昔も日本橋三井越後屋の守護神
また、三井の本拠である江戸本町から見て、三囲神社のある向島が東北の方角、いわゆる“鬼門”に位置していたことも理由のひとつです。 江戸本町とは今の日本橋本町。 三井財閥の拠点だった三井本館や、三井グループのオリジンである三井越後屋呉服店…現在の三越日本橋本店が今も健在です。
眷属(守護する動物)は狐、狛犬、そして…ライオン!?
三囲神社の神様はお稲荷さんなので、拝殿の前には狐が向い合い座っています。 また、恵比寿様や大黒様を祀っていることもあり、狛犬も鎮座しています。 そしてもうひとつ、ライオンの姿もあります。 ライオン像といえば三越の玄関口に佇む姿でおなじみ。 このライオン像は三越池袋店の玄関口に飾られていたもので、2009年の閉店を機に移設されました。 三囲神社と三井グループの縁の強さが伺えます。
東詰のすぐ南側に佇む古い神社。 本所の総鎮守として崇敬を集めています。 貞観2(860)年に慈覚大師が創建したと伝わっています。 本社には貞観17(875)年の銘を持つ板碑が存在しましたが、震災時に損壊。 現在では、その拓本が所蔵されているそうです。 祀ってある神様は須佐之男命[スサノオノミコト]。 日本では仏教の牛頭天王(祇園精舎の守護神)と習合しました。 祇園の守護神だけに源流は京都の八坂神社にあります。 江戸時代までは「牛御前」と呼ばれてましたが、明治政府の神仏分離令で「牛嶋神社」と名を改めました。
関東大震災で焼失!元あった場所は常夜灯が教えてくれます
桜橋東詰から少し上流に「墨堤常夜燈」という石灯籠が立っています。 もともと牛嶋神社は、この常夜燈の東側に立っていました。 ところが大正12(1923)年の関東大震災で焼失。 昭和7(1932)年、隅田堤の拡張工事に伴い現在の鎮座地に再建されました。 この常夜燈は明治4(1871)年に牛嶋神社の氏子連が奉納したもの。 この常夜燈だけが元あった位置を今日に伝えています。
自分の痛いところと同じ部分を触れば治る?石造の撫牛
境内にひっそり佇む石造の牛像「撫牛」。 自分の身体の痛いところと同じ部分をさすれば治るといわれてます。 また、涎[よだれ]掛けを奉納し、それを生まれた子供に掛けると健康に育つとも伝わってます。 像の隣に立つ「撫牛奉納碑」には文政8(1825)年とあるので、江戸時代から信仰されていたことがわかります。
黒毛和牛が牛車を引っ張る5年に一度の雅な祭り
牛嶋神社の例祭は毎年9月、敬老の日に近い土日に行われてます。 それが5年に一度は「大祭」となりグレードアップ! 鳳輦[ほうれん]を人とか馬ではなく“神牛”…なんと雄の黒毛和牛が曳っぱります。 ちなみに鳳輦とは「屋根に鳳凰が飾された天子の御車」のこと。 古式豊かな行列が氏子五十町の安泰を祈願してモ~ッと巡行するそう。 次の大祭は平成29(2017)年の予定です。
言問通り東詰から東京スカイツリーの方角へ向かい、割烹上総屋の角から見番通りに入った少し先。 墨田区の歴史や伝統文化を紹介している区立の資料館です。 実物資料や模型、パネル、マルチメディアなどを利用し、展示に工夫が凝らされています。 1階「すみだの歴史がわかる」フロアは、北部の旧向島区と南部の旧本所区それぞれの歴史と成り立ちを解説。 2階「隅田川」のフロアは墨堤にまつわる歴史や風俗を紹介。 3階「伝統工芸」のフロアは「すみだ粋の世界」というテーマで墨田区無形登録文化財保持者の作品を展示。 また、3階フロアは企画展示室となり年に数回、企画展や特別展が開催されます。
企画展で時々「葛飾北斎」の作品が展示されることも
区の所蔵する葛飾北斎の作品が時々、企画展として展示されます。 北斎は宝暦10(1760)年、本所割下水[わりげすい]付近で生まれました。 その縁から区では現在「すみだ北斎美 術館」を建設中。 生地は現在の墨田区亀沢近辺で、美術館もここに建設されます。 具体的な場所は両国駅の東側約400mにある緑町公園内。 開館は2015年度の予定です。
隅田公園の、ちょうど三囲神社と隅田川の間。 そこに知る人ぞ知るヒミツの憩いのスポット! 隅田公園つり場があります。 原則として小中学生が対象で、定員は約80人。 でも利用者の少ない時間帯は一般の大人でも利用可能です。 てか子供が平日の真ッ昼間っから釣りしてるほうが問題だろ! って話ですが。 それはさておき、料金は1回2時間で30円と激安! しかも見学するだけなら無料! なにせ区営ですからね。 用具とエサは各自持参のこと。 釣り竿は3m以内で、針は返しが無いものを使用すること。 魚はヘラブナですが釣った魚の持ち帰りはできません。 あくまで釣りそのものの醍醐味を味わう、格好の暇つぶしスポットです。
夏季と冬季で営業時間が異なるので注意!
料金にある「1回」というのは、下記の各時間帯を1回とカウントしています。 営業時間は次の通りです。 夏季【4月~9月】 [1]午前10時~正午 [2]午後1時~午後3時 [3]午後3時半~午後5時半 冬季【10月~3月】 [1]午前9時~午前11時 [2]正午~午後2時 [3]午後2時半~午後4時半
東詰から隅田公園を過ぎ、見番通りの角に立つ古い割烹料理屋。 といっても敷居の高い向島料亭ではありません。 気の置けない下町の割烹料理屋ってところでしょうか。 屋号の由来は先代が千葉県…旧国名の「上総」出身だったことから。 創業は昭和9(1934)年といいますから、ちょうど80周年! 近辺で多数の犠牲者が出た東京大空襲でも、店舗は奇跡的に焼け残ったのだそうです。
店には神棚、狛犬、招き猫、石のゴミ箱など戦前の昭和を感じるアイテムだらけ!
80年も営業していれば店内には戦前の昭和を感じさせるアイテムが目白押し。 神棚は店を建てた際に大工の棟梁から寄贈されたもの。 両端に並ぶ狛犬は町の頭[カシラ]から頂戴した、優に100年を超える年代物。 店の柱に直接彫られた招き猫は木彫師の西田光次が突然、一心不乱に彫り出したものとか。 昭和初期の街角で普通に散見された石のゴミ箱。 今ではすっかり姿を消しましたが、この店では今も健在です。
1階はテーブル席だけでカウンター席はナシ!居酒屋とは少し趣が異なります
居酒屋なら長いカウンターがあって…って話になりますが。 ここはテーブル席しかないので、混雑してくれば当然ながら相席。 しかし見知らぬ酔客と会話を楽しむのもまた一興。 なので一人でフラリと訪れても決して退屈しません(とは思いますが)。 そこが「下町割烹」ならではの魅力ってとこでしょうかね。
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西詰から言問通り北側一帯、現在の浅草6丁目は昔「猿若町」と呼ばれていました。 江戸時代、日本橋の堺町や葺屋町(現在の人形町近辺)や木挽町(現在の東銀座近辺)では、芝居小屋や人形小屋が繁盛しておりました。 しかし幕府から天保の改革の一環として郊外の浅草に移転を命ぜられます。 町中に散在していた歓楽街を一か所に集約することで風紀紊乱を封じ込めようとの狙いからでした。 幕府は天保13~14(1842~43)年、移転先として浅草観音裏に猿若町を起こします。 江戸唯一の劇場街となった猿若町は浅草観音や吉原遊郭に近いこともあり、空前の繁盛ぶりだったとか。 その賑いは明治時代初頭まで続いたそうです。
存亡の危機にあった歌舞伎を救ったのは遠山の金さんだった!?
街中(浅草6-19-4)にポツンと佇む「浅草猿若町碑」。 ここが一大歓楽街だったことを伝える稀少な証です。 天保の改革を主導した老中水野忠邦は当初、歌舞伎そのものを禁止しようと企んでいました。 なぜなら当時の歌舞伎は今と真逆で、非常に猥雑なものと考えられていたからです。 それを覆させたのが“遠山の金さん”こと北町奉行、遠山左衛門尉景元。 彼の献言で一か所集約管理の方針に変更されたのだそうです。
中村座跡(浅草6-4-12)に碑はありませんが看板は立ってます
猿若町に移された芝居小屋は「中村座」「市村座」「守田座」の、いわゆる「官許三座」に集約されました。 その筆頭が江戸歌舞伎の元祖といわれる中村座。 現在、中村座の跡に石碑は残ってませんが、看板は立ってます。 また、この斜向かいには歌舞伎の道具類を扱う会社、藤浪小道具があります。 嘉永6(1853)年から市村座の仕事を請け負っていたそう。 現在、猿若町に残る歌舞伎関係の数少ない会社です。
江戸歌舞伎の元祖「中村座」の芝居小屋は、両国の江戸東京博物館で見られますよ!
中村座は京から江戸に移住した猿若勘三郎が寛永元(1624)年、猿若座を創設したのが始まり。 二代目勘三郎のとき本姓を名乗り「中村座」と改称しました。 博物館のレプリカは猿若町時代ではなく、日本橋堺町時代を復元したもの。 原寸大(間口11間=約20m)、奥行3間(約5.5m)。 櫓下には3人の“看板役者”「さるわかかん三良(猿若勘三郎=中村勘三郎)」「瀬川路考」「岩井半四郎」の名が掲げられています。
中村座“十八代目”勘三郎が浅草に残した伝説「平成中村座」
平成24(2012)年、十八代目中村勘三郎が惜しまれつつ逝去しました。 生前、十八世は浅草で「平成中村座」を旗揚げ。 仮設の芝居小屋で“江戸の芝居見物”を体験できるのが特徴でした。 残念ながら十八世の逝去で平成中村座も中断。 現在の勘九郎が十九世を継いだ折、復活させて欲しいものです。 ちなみに地名「猿若町」とは初代勘三郎の「猿若」にちなんで命名されたものです。
市村座跡(浅草6-18-13)には石碑が立ってます
市村座は承応元(1652)年、市村羽左衛門が村山座の興行権を買い取ったのが始まり。 天保13(1842)年に日本橋葺屋町から、この地へ移転しました。 明治25(1892)年、下谷二長町(台東1丁目)へ移転し、猿若町から去ることに。 昭和7(1932)年に失火で劇場が焼失し、そのまま市村座は消滅しました。
守田座の跡(浅草6-26-11)にも石碑が立ってます
万治3(1660)年、森田勘弥(太郎兵衛)が木挽町五丁目(現銀座6丁目)に旗揚げした森田座が始まり。 安政5(1858)年、「森の下に田」では陽当たりが悪いので「田を守る」と縁起を担ぎ守田座へ改称。 それでも経営は安定せず、代理の河原崎座が興業していた時、猿若町に移転します。 明治5(1872)年、猿若町から新富町に移転し、3年後に新富座と改称。 その後、松竹に買収され歌舞伎座へ統合されました。
お祭りには欠かせない神輿[みこし]や山車[だし]、太鼓など祭礼具の製造販売や修理、復元、レンタルを行っている老舗です。 初代清助が文久元(1861)年、常陸国(茨城県)土浦で創業。 明治に入ると浅草に進出して店を構えました。 また祭礼用だけでなく、能や雅楽、歌舞伎など雅楽用の楽器も幅広く製造しています。 納入先は宮内庁楽部、国立劇場、国立能楽堂、国立文楽劇場、歌舞伎座、日本相撲協会、国立歴史民族博物館など伝統の殿堂がズラリ! また、明治神宮や富岡八幡宮、浅草寺や成田山新勝寺、川崎大師など寺社にも。 でも、ここは本社兼工場なので見学できません。 下記の西浅草「太鼓館」までどうぞ。
宮本卯之助製の太鼓には西浅草のショールーム「太鼓館」で触れることができます
吾妻橋西詰を道なりに進んだ突き当り。 交番の向かいに「太鼓館」はあります。 世界各国から蒐集した太鼓と参考資料を保存、公開している世界初の太鼓博物館。 収蔵品の数は約900点にものぼるそうです。 開館時間は午前10時から午後5時まで。 休館日は月曜(祝日は開館)と火曜。 入館料は大人500円、子供(小学生)150円です。
西詰交差点から一本入った裏路地に、ひっそりと佇む居酒屋。 古民家を改装した店舗が周囲のビルの狭間で異彩を放ってます。 初代店主の祖父が戦後に建てた一軒家の一階部分を改築し、43年前に創業したそうです。
昼はランチ、夜は酒肴の二刀流
現在は二代目店主が料理を担当し、妻が接客を担当、修行中の三代目の3人で切り盛りしているそう。 海老しんじょう、オイルそば、いかわたのホイル焼きなどが名物料理。 昼はランチもやってます。